昭和60年のプロ野球は虎フィーバー一色だった。かのバース・掛布・岡田のバックスクリーン三連発に象徴される猛打爆発で、阪神タイガースが21年ぶりのリーグ優勝及び史上初の日本一に輝いた年だ。


 この年のセ・リーグMVPは、ご存知ランディ・バースである。今もなお史上最強の助っ人と称される伝説の長距離砲だ。この年のバースは日本中の注目の的だった。球団史上初の三冠王と王貞治が持つシーズン55本塁打という日本記録更新に肉薄していたからだ。

 結果から書くと、周知の通りバースは三冠王は獲得したものの、シーズン本塁打に関しては55本の日本記録に一本及ばない54本に終わった。王が55本を放った時代は年間140試合制であり、一方のバースは年間130試合制での54本のため、当時巨人監督だった王は「試合数が少ないのはバースの不運。しかし、事実上抜かれたようなもの」と語っていたが、それ以上にバースが不運だったのは、その年のラスト2試合が対巨人2連戦だったことだろう。


 その2連戦の前の時点で、バースの本塁打は54本。つまり、あと1本打てば王の記録に並び、2本打てば記録更新ということになる。したがって、当時のマスコミは「巨人投手陣はバースとの勝負を避けるのではないか」と噂していた。自軍の監督である王が樹立した偉大な記録を守るためだ。

 バースも半ば諦めていたようで、2連戦の前に「私はガイジンだから、記録更新は無理でしょう」と語っていた。実際、この頃のプロ野球ファンは、今よりもっと愛国心が強かった印象がある。外国人選手はあくまで助っ人であり、言わば外様の出稼ぎ人が「日本が誇る世界の王」の記録を破ってもらっては困る。そんな世論の逆風がバースの記録更新に立ちはだかっていた。

 しかし、当の王監督自身は毅然としていた。試合前に「正々堂々と勝負する」と明言。そしてその言葉通り、2連戦初戦に巨人のエース・江川卓を先発させ、その江川がバースに真っ向勝負を挑んだのだ。


 結果は江川に軍配が上がった。バースに安打1本は許したものの、本塁打は打たせず、記録更新は第2戦に持ち越された。

 すると、続く第2戦で後に物議を醸す歪な事態が起こった。この試合、5打席立ったバースに対して巨人投手陣は全17球を投じたのだが、なんとストライクは0。さすがにあからさまな敬遠策こそなかったものの、事実上巨人投手陣はバースとの勝負を避け、その結果バースはシーズン本塁打記録に1本届かなかったわけだ。

 当時の王監督は、これに関して「敬遠の指示はしていない。投手が自主的にやったのだろう」と釈明した。さらに、その日の新聞を読んでみると、それが本当にプロ野球界的な公式見解になっていた。

 しかし、後に僕が某巨人OBに聞いたところ、やはりあの敬遠策は指令が下されていたようだ。「バースにストライクを投げたら罰金」そんなお達しが、某コーチから巨人投手陣に言い渡されていたという。

 もっとも、それでも確かに王監督は指示していない。あくまでコーチが自主的に動いたと説明できる。うーん、微妙だ。


 最後に、そんな昭和の最強助っ人・バースが、実は阪神退団後ヤクルトに入団する寸前だったことをご存知か。

 バースといえば、昭和63年のシーズン途中に愛息の病気に端を発する球団とのトラブルの末、阪神を解雇されたことが知られている。しかし、話はそこで終わっておらず、その年のシーズンオフに関根潤三監督率いるヤクルトがバース獲得に動いていたと、当時の関係者から耳にしたのだ。

 その頃のヤクルト首脳陣は、若き逸材だった広澤克己と池山隆寛を一人前の主砲に育てるべく、二人の生きた教材となるような「大物の4番打者」を欲しており、そこでバースに白羽の矢を立てたわけだ。

 しかも、バースとの交渉もスムーズに進んだ。年俸面の折り合いもつき、いざ契約成立というところまでこぎつけた。 しかし、当時のヤクルト関係者曰く、そこで球団上層部から「バース獲得を見送るように」という思わぬ横槍が入り、泣く泣く破談となったのだ。

「おそらく阪神球団が他の全11球団に『バースを獲るな』という御触れを回したのだろう」

 とは、その関係者の述懐の弁。

 果たして真相はいかに――。

 門田博光のブログがしょぼい。一応、‘オフィシャルブログ’と銘打たれてはいるものの、一般人が手作りで開設したような簡素なデザインになっている。更新頻度も低く、内容もメディア告知ばかりだ。それで頻度が低いということは、すなわちメディア露出が少ないということだろう。


 野球ファンとして、これは実に哀しいものがある。なにしろ現役時代の門田といえば、プロ野球史上3位となる通算567本塁打を放った昭和年間を代表する左の長距離砲。昭和の終焉とともに身売りすることになった南海ホークスの主砲として、名球会や野球殿堂入りも果たしている。

 それなのに、現在の地味としか言いようがない働きぶりはいかがなものか。大きなお世話かもしれないが、彼の実績を鑑みれば鑑みるほど、寂しさや違和感を覚えてしまう。引退以降の門田は一度たりともプロ野球の監督やコーチを経験しておらず、なんとなく不遇な印象を受けるのだ。


 もっとも門田は、脳梗塞をはじめとした様々な病気を患っており、健康に不安がある。さらに南海時代の監督である野村克也曰く、門田と江夏豊、江本孟紀の三人は人格的に三悪(不良三人衆)らしく、「指導者には向いていない」と断言している。

 確かに現役時代の門田は優等生ではなかった。特に昭和45年~52年、野村監督がプレイングマネージャーとして南海の指揮を執っていた時代は、パワフルな打撃が注目を集める一方で素行不良が問題視されており、球界のタブーとされる監督批判を堂々と口にすることも珍しくなかった。

 中でも当時の野村監督(前妻と婚姻状態にあった)の愛人として世間を騒がせていた伊東沙知代(後のサッチー)に絡んだ批判は舌鋒鋭く、「監督の愛人が選手に口を出してくる」と不満を爆発。それを聞いた野村監督が「門田みたいに監督を批判するような選手は任意引退にして球界から締め出してやる。絶対に許せん」と激怒した。

 ちなみに、この件も含めた一連の騒動の末、野村監督は昭和52年限りで南海を退団し、選手専任として金田正一監督率いるロッテに移籍。その後西武にも移籍し、昭和55年に45歳で現役を引退した。


 その一方で、門田は大打者らしからぬ庶民性を感じさせる選手でもあった。とりわけ移動手段が興味深い。現役時代の門田は基本的に電車通勤。しかも自宅は奈良県にあり、そこから大阪府や兵庫県にある様々な球場まで電車に揺られていたわけだ。

 普通、門田ほどの一流選手なら自前の高級車だろう。近年も巨人時代のラミレスの電車通勤が話題になったが、ラミレスは自宅が東京ドームの近くである。しかし、門田の自宅は奈良県だ。晩年オリックスに在籍したときなどは、最寄り駅から近鉄電車に乗って大阪まで行き、さらにそこから地下鉄と阪急電車、阪神電車、はたまたJRを乗り継いで、ようやく神戸の本拠地球場まで辿り着いていたという。そんなに乗り換えして、アキレス腱は大丈夫だったのか。


 そう、門田といえばやっぱりアキレス腱である。昭和54年、門田は右足アキレス腱断裂という大怪我を負ったものの、それを不屈の闘志で克服し、「ホームランならゆっくりダイヤモンドを回れるので、足に負担がかからない」というめちゃくちゃな理由で全打席ホームラン狙いを徹底。それによって、故障前よりも好成績を残すという野球漫画みたいな離れ業を演じた。

 過去に怪我を克服した選手はたくさんいたが、怪我前よりもキャリアアップした選手は門田ぐらいだろう。昭和63年には、40歳ながら44本塁打、打点125と二冠王に輝いた門田。アキレス腱断裂は、彼にとって怪我の功名だったのかもしれない。


 そういえば僕が小学生の頃、たまたま大阪球場の近くで、アニマル柄のトレーナーにベージュのチノパンというチンピラファッションに身を包んだ門田を見かけ、思わずサインをねだったことがある。

 ところが、門田は「アキレス腱が痛いから無理やねん」という意味不明な理由でサインを拒み、そのまま‘軽快な足取り’で夜のミナミに消えていった。たぶん、酔っていたのだろう。顔が赤かったのだ。


 今思うと、ツッコミどころ満載のエピソードだが、当時の僕は「サインを書けないぐらい足が痛いのに、あんなにホームランを打てるんだ。門田ってすげえ!」と能天気に感嘆したことを覚えている。我ながら平和な思考回路をしていたものだ。


 プロ野球マスコミが選手とファンをつなぐために存在するとしたら、その最大の使命のひとつは各選手に秀逸なキャッチコピーをつけることだ。これは特にちびっ子ファンに効果絶大だ。短い言葉で選手の個性を見事に言い表し、尚且つ語感に人々の耳目を奪う魅力があれば、ちびっ子たちはたちまちその選手に注目するだろう。


 かくいう僕も少年時代はそうだった。幼いころ、阪神・掛布雅之の虜になった理由のひとつにミスタータイガースというキャッチコピーのかっこよさがある。

 それより以前のミスタータイガースといえば田淵幸一が思い出されるが、彼にはそれ以外にも天才ホームランアーチストという子供心をくすぐる秀逸なキャッチコピーが定着していた。田淵特有の滞空時間の長いホームランを空にかかる大きな橋(アーチ)のような放物線だと形容し、その美しさに芸術家のアーティストを掛け合わせて生まれたホームランアーチスト。誰が最初に言い出したかはわからないが、つくづく絶妙なコピー作品だ。田淵という打者のすべてを簡潔に言い表している。


 時は昭和40年代~50年代。当時のプロ野球界は、そんなキャッチコピーの全盛時代だった。ミスタープロ野球・長嶋茂雄と世界のホームラン王・王貞治が引退したあとの巨人にも、怪物・江川卓や若大将・原辰徳、絶好調・中畑清、安打製造機・篠塚利夫(現在は和典)、青い稲妻・松本匡史といった絶大な人気と知名度を誇るキャッチコピー付きの選手が続々と出現した。

 他の球団を見渡してもそうだ。投手では史上最高のサブマリン・山田久志、草魂・鈴木啓示、喧嘩投法・東尾修、マサカリ投法・村田兆治、酒仙投手・今井雄太郎、悲劇のサイドスロー・小林繁、ミスターパーフェクト・外木場義郎、精密機械・北別府学、カミソリシュート・平松政次、スピードガンの申し子・小松辰雄など、各球団のエース格には必ずと言っていいほど、それぞれの個性及び投球スタイルを見事に表現したキャッチコピーがついていた。

 また、野手もしかりである。ミスター赤ヘル・山本浩二、鉄人・衣笠祥雄、小さな巨人・若松勉、神主打法及びミスター三冠王・落合博満、世界の盗塁王・福本豊、円月打法・田尾安志、オバQ・田代富雄、不惑の大砲・門田博光、サモアの怪人・ソレイタ、赤鬼・マニエルなど、個性豊かなキャッチコピー付き選手が続々登場。さらに大洋ホエールズが誇る俊足選手三人衆(高木豊、加藤博一、屋敷要)にはスーパーカートリオなんていうユニット名まで付けられ、ファンの市民権を得ていた。

 中にはへディングキャッチ・宇野勝やドカベン・香川伸行、コンニャク打法・梨田昌孝、浪速の春団児・川藤幸三といった少年ファンの笑いの対象になるコピーもあったが、それもまたプロ野球人気を支えていたことは間違いないだろう。大体、ミスターデッドボールや爆笑生傷男など、様々なコピーで散々いじり倒された金森永時なんて、それがなかったらファンに名前と顔を覚えてもらえなかったかもしれない。キャッチコピーとはかくも偉大なのだ。


 しかし、最近の球界にはそういったキャッチコピーが減ったと思う。楽天・田中将大のマーくんをはじめ、日本ハム・斎藤佑樹の佑ちゃん、広島・前田健太のマエケンなど、それなりにファンの間で定着している‘ニックネーム’こそあれども、それはあくまで選手に親しみを抱きやすくするためのものであり、プレースタイルを表現するキャッチコピーというわけではない。

 そういうコピーという意味では、阪神・藤川球児の火の玉ストレート、西武・中村剛也のおかわりくんぐらいじゃないか。球界のコピーの系譜はトルネード投法・野茂英雄やID野球の申し子・古田敦也、大魔神・佐々木主浩、宇宙人・新庄剛志、ミスターコントロール・小宮山悟らを最後に途絶えてしまったのだろうか。


 これは非常に寂しいと思う。前述のマーくんや佑ちゃんは選手間で使われていた愛称をそのままマスコミが転用しただけにすぎず、本来ならマスコミがプロならではの語彙力を駆使して、彼らのプレースタイルにあった絶妙なコピーをつけるべきだ。そのほうが野球の魅力が伝わる気がする。

 果たして、ダルビッシュ有や田中将大の鬼気迫るピッチングは何投法なのか、青木宣親の芸術的なバッティングは何打法なのか。僕も考えていきたいところである。

 昨年秋ごろ、阪神タイガースの新監督が現在の和田豊に決定する前のことである。在阪放送局などがファンに向けて「阪神の新監督は誰がいいか?」というアンケート調査を敢行したのだが、そこで興味深ったのは、あの掛布雅之が断トツで最多得票を獲得していたことだ。

 もちろん、現役時代の掛布は四代目ミスタータイガースと称えられた阪神史上屈指のスタープレーヤーであり、オールドファンの間でいまだに根強い人気があるのもうなずける。しかし同時に、現役引退後に阪神球団との確執や事業失敗による巨額の借金問題など、様々なトラブルに見舞われており、掛布の球界復帰が絶望視されていることも広く知られているはずだ。そんな状況は百も承知のうえで、ファンの多くはなおも掛布監督の誕生を望んでいるというわけだ。


 その理由には色々あったが、中でも多かったのは掛布の監督手腕に期待する意見よりも、「もう一度、背番号31を甲子園で見たい」「一年限定の記念監督でもいいから、ファンサービスしてほしい」といった私的な感情論である。また、現在の掛布の経済状況に言及しながら、「一勝ごとに勝利給を出す契約にすれば、今の掛布なら人知を超えたとんでもない能力を発揮するかもしれない」といった妙な期待感を口にするファンもいた。

 確かにおもしろいとは思う。采配云々は別にして、マスコミはネタにしやすいだろう。掛布阪神が連勝街道を突き進めば「掛布、野球では貯金」とスポーツ紙に書かれるだろうし、その逆になれば「掛布、野球でも借金地獄」とイジられることは間違いない。いつか見てみたいものである。


 さて、いきなり話題を変えて、そんな掛布の引退試合についてである。

 昭和63年10月10日のヤクルト戦。阪神のシーズン最終戦であり、いわゆる消化試合だったにもかかわらず、甲子園は超満員だった。

 この試合、掛布は往年の定位置であった四番・サードでスタメン出場し、八回裏に現役最終打席を迎えた。甲子園の大観衆が一瞬静まり返る。もう二度と見ることができないミスタータイガースの最後の勇姿を必死で目に焼き付けようとしていた。しかし、あろうことかヤクルトの外国人投手・ギブソンの制球が乱れ、掛布は一度もバットを振ることがないまま、最終打席を四球で終えてしまったのだ。

 当然、観客はギブソンに大ブーイングだった。すでに優勝は中日に決定している中での引退試合なのだから、素直にストライクを投げろよ。掛布に最後の花を持たせろよ。かようなファンの憤りが爆発し、ギブソンは一気に阪神ファンに嫌われてしまったのだ。


 と、ここまではファンにもある程度知られている話だが、実はこの話の裏には知られざる細やかなドラマがある。当時、ヤクルトのヘッドコーチを務めていた安藤統男は、掛布がバリバリの全盛期だった昭和57年~59年にかけての阪神監督でもあり、言わば掛布の恩師である。そんな安藤が掛布の最終打席の前にギブソンを呼び寄せ、密かにこう囁いていた。

「日本のスタープレーヤーの現役最後の打席だ。わかってるな?」

 要するにヤクルトベンチは、掛布への粋な計らいとして、暗にストライク指令を出していたのだ。

 ギブソンもそれを了承して、勇躍マウンドに上がった。当時の捕手・秦真司も素直にストライクを要求し、掛布に「次、振ってください」と耳打ちしていた。しかしそれにもかかわらず、ギブソンは四球を与えてしまった。つまり、ヤクルトにとっても計算外だったというわけだ。


 もっとも、だからといってギブソンを責めるのもかわいそうだ。

 なぜなら、あの四球のあと、ベンチに戻ったギブソンは激しく後悔しながら、こう漏らしたという。

「緊張した……」

 この話を安藤本人から聞いたとき、僕は思わず笑ってしまった。なんだよ、ギブソン。そうだったのか。確かに大変なプレッシャーだったのだろう。同情します。プロ野球選手も人の子である。外国人投手も同じ人間である。緊張してストライクが入らなくなるなんて、草野球みたいで微笑ましいじゃないか。掛布の引退試合には紛れもない人間ドラマがあったのだ。


 現在の球界でもっとも注目を集めている世代といえば、昭和63年度生まれのいわゆる‘ハンカチ・田中世代’である。この世代には楽天の若きエース・田中将大を筆頭に、日本ハムのアイドルルーキー・斉藤佑樹、巨人・坂本勇人、広島・前田健太など、人気と実力を兼ね備えた錚々たる顔触れが並んでいる。今後、彼らが日本球界を牽引していくのは間違いないだろう。

 なお、この‘ハンカチ・田中世代’という呼称はメディアやファンによって諸説あり、単にハンカチ世代や田中世代、あるいはプラチナ世代と呼ぶ場合もある。そのどれが正しいかは個人の裁量に委ねたいところだが、とにかくプロ野球マスコミが彼ら同級生選手たちのことを「○○世代」と一括りにしたがっているのは確かだ。


 ところで、優秀な選手が多く集まった世代のことを、その中心である選手の名を冠して○○世代と呼ぶようになったのは、言わずと知れた松坂世代が最初である。あの松坂大輔を筆頭に、ソフトバンク・杉内俊哉と和田毅、阪神・藤川球児。横浜・村田修一など、日本代表クラスがごろごろ揃った昭和55年度生まれの選手たちだ。

 実際にはそれ以前の球界にも、名選手が揃った世代はいくつもあったのだが、当時は○○世代という呼称がなく、一般に広く知れ渡ることはなかった。すなわち、時代に埋もれた名もなき最強世代である。

 たとえば昭和40年度生まれがそうだ。古田敦也、山本昌広、池山隆寛、星野伸之、渡辺久信、小宮山悟といった名前が挙がる。また、昭和40年度生まれにもイチロー、小笠原道大、中村紀洋、三浦大輔、黒木知宏といった顔触れが揃っている。


 中でも、僕が「これこそ最強だ」と強く推したいのが、昭和を彩った元祖怪童投手・尾崎行雄の世代である。

 話は昭和36年夏の甲子園まで遡る。当時、浪商高校の二年生エースだった尾崎行雄は同校を全国優勝に導く快投を見せ、一躍プロ球界の注目の的となった。そこまでならよくある話だが、尾崎の場合はここからがすごい。なんと、まだ二年生ながら高校をさっさと中退し、プロ野球・東映フライヤーズに入団。しかも若干17歳のルーキーイヤーに、いきなり20勝を達成するなど、まさに怪童の名をほしいままにした。松坂や田中以上である。

 そして、そんな尾崎世代(昭和19年度生まれ)の他の顔触れがもっとすごい。「月に向かって打て」の言葉で知られる通算2228安打、486本塁打の大杉勝男を筆頭格に、安仁屋宗八、高橋直樹、八木沢壮六、木俣達彦、竹之内雅史などといった個性派の名選手が揃っており、もっと変わったところでは元祖日本人メジャーリーガー・村上雅則や通算代打本塁打27本の世界記録保持者・高井保弘も同世代。尾崎世代はクセ者集団でもあるのだ。

 また、高校を二年で中退した尾崎は通常より一年早くプロ入りしているため、プロでは一学年上の選手たちと同期だった。そんなプロにおける尾崎世代の中で、もっとも尾崎と因縁浅からぬはV9巨人の不動の核弾頭、赤い手袋の柴田勲である。法政大学第二高校時代は投手だった柴田は、二年夏と三年春にエースとして甲子園を連続制覇。そして、三連覇をかけて挑んだ三年夏の甲子園が前述した昭和36年であり、浪商の二年生エース・尾崎の快投によって準決勝で敗れたわけだ。


 ちなみに柴田と尾崎はこれを含めて高校時代に三度対戦しており、二人のライバル物語は当時の高校球界の華だった。そう考えると、尾崎世代とは柴田世代とも呼べるのかもしれない。柴田の同学年には70年代のミスターホエールズ・松原誠や同時代にミスターブレーブスと呼ばれた長池徳士がおり、元百メートル走日本記録保持者の陸上選手からプロ野球の代走要員としてロッテに入団し、一時期話題をさらった飯島秀雄もいる。柴田世代か尾崎世代か、あるいは柴田・尾崎世代か。現在のハンカチ・田中世代に通ずるものがある。

 いずれにせよ、元祖怪童・尾崎行雄は昭和30年代の球界において、現代の松坂や田中に負けない輝きを放っていた。通算勝利数は107勝と目を見張るものではないが、それは若くして肩を壊したことで実働年数が短かったからに他ならない。尾崎と同世代の選手たちが軒並み大成したのは、彼らが世代の中心軸たる尾崎の背中を必死に追いかけた結果であろう。


 昭和最後の63年、日本初の屋根付き球場である東京ドームがオープンし、球界はまさに新時代への過渡期を迎えていた。昭和プロ野球と平成プロ野球の大きな違いのひとつは、間違いなく球場に屋根があるかないか、すなわち雨天中止が多いか少ないかである。


 さて、そんな東京ドームの記念すべき第1戦といえば、昭和63年のセ・リーグ開幕戦『巨人VSヤクルト』である。当時20歳だった桑田真澄が巨人の戦後史上最年少開幕投手を務めるということもあり、日本中が異様な盛り上がりを見せていた。

 試合直前、マスコミの注目はもっぱら「東京ドーム第一号ホームランは誰が打つのか?」だった。テレビ番組はそれをオッズ形式のクイズにしており、一番オッズが低かったのは当時の巨人の4番・原辰徳、次いで中畑清、クロマティ、吉村禎彰といった名前が並んでいた。一方のヤクルトは若き大砲、広沢克実と池山隆寛のイケトラコンビが売り出し中の頃。二人のアーチ共演にもファンの期待は高まっていた。


 かくして開幕戦が始まった。

 皇太子御一家も観戦に訪れるという異様なムードの中、実況アナウンサーは「東京ドーム第1号は原でしょうか、中畑でしょうか。試合前の練習を見る限り、原の状態は良さそうです」と、あからさまな発言を連発。正直、誰が見ても原が打つのが一番丸くおさまると思うほどの空気だった。中畑もいいけど、ここはやっぱり4番に華を持たせるのがプロというものだ。ましてや広沢と池山なんて、いつも以上にアウェー感があったんじゃないか。まだ若手だった二人が球界の若大将を差し置いて、どうして第1号を打てますかって話である。

 

 ところが、事実は小説より奇なり。そんな空気の中、あろうことかヤクルトの新外国人、ダグ・デシンセイが初打席でポコンとホームランを打ってしまったのだ。

 あのときの実況アナのコメントと球場の空気は今も忘れられない。

「あ、デシンセイが打っちゃいました。東京ドーム第1号はデシンセイです……」

 なんとも空虚感のある言葉を呟く実況アナ。球場の空気もすさまじかった。一瞬静まり返り、ほどなくして渇いた拍手がぱらぱら起こるといった感じである。

 一方、何も知らない新外国人・デシンセイにしてみれば、いったい何が起こったのかまったくわからなかっただろう。ホームランを打ったわりには、両軍の様子がどこかおかしい。三塁を守っていた原なんか、口をポカーンと開けていたぐらいだ。


 このときのデシンセイは、今風に言うと、まさにKYというやつである。今まで原や中畑あたりを必死で盛り上げていたメディアの立場はどうなるんだ。それに扇動されていたファンはどうなるんだ。


 しかし、当時の僕はデシンセイを恨むというより、それによって急にテンションがガタ落ちした世間の反応がおもしろくてしょうがなかった。滑稽かな、滑稽かな。よくやった、デシンセイ。ナイスKY。


 ちなみに、このデシンセイは三塁手であり、これまたちょっとしたKYだった。

 なぜなら、この年のヤクルトのドラフト1位はあの長嶋一茂である。つまり、長嶋茂雄二世のポジションに、異国からやって来た外国人三塁手が容赦なく立ちはだかったというわけである。いずれにせよ、僕の中では昭和最後の忘れられない外国人である。


 いつまでもプロレスとごっちゃにされてしまう日本の総合格闘家のストレス、「千の風になって」の秋川雅文が世間からオペラ歌手だと大雑把に認識されていることに対する本当の日本のオペラ歌手のストレス。……他にも色々ありそうだが、そういった現代日本人の物事を正確に見極める力のなさは、決して彼らの才が悪いのではなく、一時のビジネスのために「わかりやすさ」を優先させて、物事を正確に伝えてこなかった、あるいは物事を大雑把にカテゴライズすることで細かくも大きな違いをごまかしてきたマスメディア(特に地上波テレビ)の罪だと思う。かつて上岡龍太郎が「マスメディアはその影響力の大きさに自覚と責任をもたねばならない」と主張していたが、逆に言えばマスメディアの姿勢が真摯でありさえすれば、前述した日本人の審美眼や見極める目は少しずつでも育っていった気がしてならないわけだ。


 そう考えると、たとえば或る表現分野に生きる日本人が、その分野の本場が異国にあることを知った場合、その人が海外のライフスタイルやイデオロギーに興味がまったくなかったとしても、最終的にその土地を目指してしまいたくなる気持ちはすごくわかる。その表現者はきっと、高みに挑戦したいから、憧れの地だから、などという理由だけでなく、自分自身を正当に認識・評価・審査されたいからではないか。現状のままだと、その道のどこに自分が立っているのかもわからず、不安でしょうがないからではないか。どこかで諦めようにも、諦めきれないからではないか。僕にとっては、そういう本場があること自体が羨ましい。


 こういうことを口にすると、よく「なんだかんだ言っても、売れたもん勝ちだ。売れていない奴が周囲の審美眼に文句を言っても、それはただの負け惜しみでしかなく、売れた物・人間には必ず何か素晴らしさがあるはずだ」という批判的な理屈が返ってきたりする。20代のころは、それは確かにそうかもなあと思っていたが、今は違う。審美眼はある一定のレベルを超えたら人それぞれの価値観に委ねられると思うが、それ以前の「どうしようもないぐらい低いレベルの審美眼」というのは確かに存在する。そういう人が多いからこそ支持される表現もある。これはおそらく、絶対論だ。


 ところで、腹が減った。

なんだか最近、新刊ラッシュです。
というわけで、11月25日にまたまた山田隆道最新刊が発売されます。
今度はエリート進学校のリアルを描いた青春群像小説……のつもり。


『神童チェリー』(著・山田隆道 刊・アスキーメディアワークス)


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全国屈指の東大合格率を誇る超エリート進学校に通う男子高校生たちの’リアル’を描いた青春コメディ。不良高校生が喧嘩したり、スポーツしたりするだけが青春じゃない。もうひとつの青春の葛藤は、切なくも可笑しいもの。童貞のまま受験戦争を戦うか? それとも下半身に正直になるか? それが問題だ!!

 

【その他の主な作品】


雑草女に敵なし! 雑草女に敵なし!
著者:山田 隆道
販売元:朝日新聞出版
(2009-11-06)
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雑草女 (アフタヌーンKC)雑草女 (アフタヌーンKC)
著者:朝基 まさし
販売元:講談社
(2011-10-06)
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芸能人に学ぶビジネス力 (マイコミ新書)芸能人に学ぶビジネス力 (マイコミ新書)
著者:山田 隆道
販売元:毎日コミュニケーションズ
(2011-08-23)
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阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった (ナックルズブックス32)阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった (ナックルズブックス32)
著者:山田 隆道
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阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった
著者:山田 隆道
販売元:ミリオン出版
(2009-12-05)
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 僕の父と姉は大阪人にしては珍しく、生粋の巨人ファンだ。僕が阪神ファンであるため、よく人から家族全員阪神ファンだと思われがちだが、実際のところ、山田家で阪神ファンは亡くなった祖父と僕だけである。したがって、昔の山田家ではテレビで伝統の阪神・巨人戦があれば、父&姉の巨人組と祖父&僕の阪神組が同じ部屋に集合し、場外バトルを繰り広げることになっていた。甲子園のレフトスタンドとライトスタンドが狭いリビングに混在するという危険極まりない状況だった。

 かくして、そんな環境で育った僕は偏ったアンチ巨人にならずにすんだ。巨人ファンと生活を共にすることで、他球団の魅力を受け入れながら阪神を愛することができた。なんだかんだいって、僕は巨人ファンの父に養われ、育てられたのだ。


 さて、そんな巨人ファンであるが、彼らと話をしていると、ある興味深い傾向があることに気づく。「ポストON時代の中で巨人軍がもっとも輝いていた時代はいつか?」という質問をすると、驚くほどみんな同じ答えが返ってくるのだ。


 それは1989年からスタートした第二次藤田元司政権の4年間。斉藤・桑田・槇原の三本柱を軸に89年、90年とペナントレース2連覇を達成した投手王国時代の巨人がもっともおもしろかったと、多くの巨人ファンは口を揃えるのだ。あ、あくまでも僕が勝手に調査したひとつの傾向です。そう思っていない巨人ファンも多数いることは承知しておりますので、参考結果としてご了承いただければ幸いです。


 正直、ちょっと意外だった。僕はてっきり、江川、西本、原、クロマティといったタレントたちが揃った派手な80年代前半から中期か、ミスターが二回目の指揮をとり、ゴジラ松井が4番に君臨した90年代中期から後期が人気だと思っていたのだ。


 確かに三本柱時代の巨人の投手陣は斉藤・桑田・槇原というエース級以外にも宮本、香田、木田、水野といった他のチームならエース格になれそうな投手が脇を固めるとんでもない布陣。斉藤なんか2年連続で20勝しちゃうし、桑田と槇原も先発するとほぼ完投。90年の優勝なんか、88勝のうち80勝が先発ローテの勝ち星というちょっと異常な投手王国だった。


 僕が思うに、こういった投手王国は巨人軍の歴史においては非常に珍しい時代だったのではないか。そもそも巨人というチームには昔からONを筆頭とした打高投低の伝統みたいなものがある。本拠地の後楽園球場や東京ドームが狭いこともあり、ホームランが多発する派手な試合こそが巨人野球だと、どっかの新聞社の会長も思い込んでいたり、いなかったりするわけだ。


 だからこそ、巨人ファンは乱打戦に慣れてしまい、三本柱時代の投高打低ぶりに新鮮な衝撃を覚えたと僕は勝手に分析している。投高打低のチーム編成は長い巨人の歴史において、極めて稀有な輝きを放っており、その珍しさから強烈な記憶としてファンの脳裏に刻まれているのだ。たぶん。


 この仮説の真偽は別にして、我らが阪神タイガースにも同じような傾向があると思うのは僕だけか。そもそも阪神には昔から村山や江夏を筆頭にした投高打低の伝統があり、その系譜は近年のJFK全盛時代にも受け継がれている。だからこそ、多くの阪神ファンは「バース・掛布・岡田」の時代、つまり阪神の歴史において非常に珍しかった打高投低のチーム編成に新鮮な輝きを覚え、今もあの頃の3連発はトラキチの語り草になっているわけだ。きっと。

 10月24日、山田隆道の過去著書の廉価版が発売されました。

 

 

阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった (ナックルズブックス32)阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった (ナックルズブックス32)
著者:山田 隆道
販売元:ミリオン出版
(2011-10-24)
販売元:Amazon.co.jp
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 2009年12月に刊行された同名単行本の廉価版書籍です。
 ちなみに初版バージョンは以下です。

 
阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった
著者:山田 隆道
販売元:ミリオン出版
(2009-12-05)
販売元:Amazon.co.jp
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 といっても、まったく同じ内容をそのまま廉価版に落としたというわけではなく、初版から2年たったので、なるべく新しい情報を加筆したり、文章に修正を加えたり、各章の間にまったく新しいコラムコーナーを設けたり、とにかく色々と手を加えました。

 

 

 中でも最大の追加ネタがございます。それは友人であり、ネットTVやトークライブでも頻繁に共演している漫画家・カネシゲタカシさん描き下ろしの暗黒時代のダメ虎風刺漫画や人気選手たちのイラストが多数収録されているところ! 友達関係にあぐらをかいて、シゲたん(カネシゲさんのこと。本人の前では言ったことがない)に図々しいお願いをしました。

 

 
 シゲたん、引き受けてくれてサンキューでーす! 

 

 
 僕は「久慈の送りバント」と「岡田監督のNANAバージョン」、「バースと亀山」、「吉田義男監督」の漫画が特に好きです。これだけではまったく意味がわからないでしょうから、興味を持った方は購入していただけたら嬉しいなあ、なんて思っております。はい。

 

 

 なお、廉価版書籍なので、書店の他にコンビニでも売っています。っていうか、むしろコンビニ販売が主のようなので、お近くのコンビニで探していただければ幸いです。それでも見つからないという方は、やっぱりアマゾンの通販が便利ですよねー。僕も最近はほとんど本をアマゾンで買ってます。ではでは、何卒よろしくお願いします。

 

 

 

<その他、最近発売された僕の著書>

 

 

雑草女 (アフタヌーンKC)雑草女 (アフタヌーンKC)
著者:朝基 まさし
販売元:講談社
(2011-10-06)
販売元:Amazon.co.jp
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芸能人に学ぶビジネス力 (マイコミ新書)芸能人に学ぶビジネス力 (マイコミ新書)
著者:山田 隆道
販売元:毎日コミュニケーションズ
(2011-08-23)
販売元:Amazon.co.jp
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 篠塚和典(旧・利夫)が通算2000本安打に達しなかったのは悔やまれる事実である。篠塚といえば1981年の藤田トロイカ体制下の巨人で頭角を現した、いわゆる長嶋チルドレンの一人であり、首位打者2回、打率3割以上を7回も記録した80年代屈指の巧打者だ。通算打率3割を超えるほどの安打製造機だったが、持病の腰痛のため衰えるのも早く、33歳の若さでレギュラーを外れ、94年に37歳で引退した。

 

 当時は32、3歳が選手の一般的な過渡期だったと思う。原辰徳もそれぐらいから成績を落としているし、高橋慶彦や松永浩美なんかもそうだ。彼らはいずれも80年代に栄華を誇った一流打者だったが、現在に比べて衰えるのが早く、結局2000本安打には達しなかった。もし彼らが後10年ほど遅く生まれ、スポーツ医学が飛躍的に進歩した90年代に全盛期を過ごしていたなら、00年代に間違いなく名球会のブレザーを着ていただろう。現代スポーツ医学の力を借りれば、30代後半で20代後半のフィジカルを維持することなど珍しくないのだ。

 

 さらに僕は、もし彼らが後10年早く生まれていたとしても、同じように名球会入りを果たしていたと思っている。篠塚なんか70年代から活躍していたら、張本勲は言いすぎかもしれないが、藤田平や新井宏昌ぐらいの安打数は記録していたんじゃないか。何が言いたいかというと、60年―70年代のプロ野球は選手のフィジカルの衰えをテクニックで充分カバーできた時代だったということ。つまり、それだけ野球のレベルが(たぶん)低かったと思うのだ。ON世代のオールドファンの皆様、怒らないでください。たぶんですよ。たぶん。

 

 それを証拠に篠塚らの世代(現在50代前半)よりも上、つまり山本浩二たちの世代(現在60代前半)の選手は30代中盤ぐらいまで全盛期ばりばりの成績をキープしているケースが多く、ON世代(現在70代前半)になってくると30代後半ぐらいまでレギュラーとして活躍している選手が多い。医学の常識を考えると昔のほうがフィジカルが衰えるのは早かったはずだが、それでも成績をキープしていられたのは、かつてのプロ野球の選手層の薄さとレベル問題に起因しているのだろう。

 

 しかし、80年代以降の近代プロ野球は目覚しい勢いで発展を遂げてきた。最新機器を導入した科学的トレーニングの進歩やメジャー流の練習法の普及などにより、野球自体のレベルが格段に跳ね上がった。そして90年代になると、野茂英雄が日本野球のレベルの高さを世界で立証し、日米野球で来日してくるメジャーリーガーたちも昔のように遊び半分ではなく、鬼気迫る表情で全力プレーを見せるようになった。

 

 そんな90年代初頭に30代前半になったのが篠塚の世代なのだ。フィジカルの衰えをテクニックでカバーできるほど、野球のレベルが低くない。著しく発展した90年代プロ野球に対応するためには、フィジカルそのものも80年代から強化しておかないと間に合わなかったはずだ。しかし、哀しいかな、フィジカルを強化・維持するためのスポーツ医学が重視されるようになったのは90年代に入ってから。80年代はまだ体にメスを入れるだけで大騒ぎされた時代であり、江川なんて肩に針を打つという古典的な治療を行っていたほどだった。

 

 つまり、プロ野球の発展とスポーツ医学の発展の間にはちょうど10年ぐらいのタイムラグがあると思うのだ。よって、80年代の選手たちは70年代の選手たちと同じようなフィジカル条件で、90年代前半のプロ野球に挑まなくてはならず、だからこそ衰えるのが早かったんじゃないか。

 

 時代のうねりの中には必ずエアーポケットがある。

 80年代に全盛期を過ごし、89年に32歳を迎えた篠塚は、そんなテクニックとフィジカルの間にぽっかりできた「時代のエアーポケット」に完全にはまってしまった名選手だったのかもしれない。この世代の名球会員は驚くほど少なく、通算成績という意味ではもっとも非業な世代だったと思えてならないのだ。

2011年9月23日(金)

トークライブ「こんなプロ野球はイヤだ!Vol.4」開催

OPEN18:00 / START19:00

会場:新宿ネイキッドロフト(http://www.loft-prj.co.jp/naked/

 

 毎回大好評をいただいている作家・山田隆道と漫画家・カネシゲタカによる超バラエティ的プロ野球トークショー。第4回目は前回までの恒例となっていたニコニコ生放送の配信を撤廃し、最初から最後までライブ会場限定の禁断オフレコトーク満載で突っ走ることにしました!

 

 ちなみに現段階で計画しているライブの主なメニューはこちらです!

 

「発掘! スター選手お宝写真」

「若き日の野村迷語録 ~あの頃、ノムさんはまだ若かった~」

「ズバリ当てます! 来季監督人事‘裏ネタ’報告」

「大物FA選手の動向マル秘リポート」

「大好評! 野球大喜利スライドショー」

 

 ※その他、門外不出の爆弾ネタ多数!  

 

 

 以上、プロ野球ファンなら誰もが笑えて唸ってしまう、超貴重なライブ。  

 皆様、どうか会場まで足をお運びください。

 

 

【メインパーソナリティ】 山田隆道(作家)  カネシゲタカシ(漫画家)

【ゲスト】 写真週刊誌「FLASH」野球担当記者・伊藤実

【チケット料金】 前売¥1,500 / 当日¥1,800(共に飲食代別)

 

【チケット取扱い】※以下で絶賛発売中!

・電話予約及び問い合わせ(Tel:03-3205-1556)

・web予約(http://www.loft-prj.co.jp/naked/reservation/reservation.php?show_number=271

・ローソンチケット【L:33664】

 

 

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 山田隆道最新刊も絶賛発売中!

 
芸能人に学ぶビジネス力 (マイコミ新書)芸能人に学ぶビジネス力 (マイコミ新書)
著者:山田 隆道
販売元:毎日コミュニケーションズ
(2011-08-23)
販売元:Amazon.co.jp
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 普段、なにげなくメディアを通して見聞きしている芸能人。彼らのことを今までよりちょっと肯定的に見ようとする心さえ養えば、あらたに気づくことが山ほどある。たとえ素顔はどんな人間であろうが、生き馬の目を抜くような厳しい芸能界で、自分の名前を看板にたくましく荒波を渡り歩いているという点は紛れもない事実……。そこだけを考えると、どんな芸能人にもなにか一つぐらいは人生のためになる処世術の極意が隠されているんじゃないか。本書はそんな「芸能人から学ぶべきビジネスの極意」にスポットをあてた、いわゆる仕事力を向上させるための指南書であり、同時に昨今の芸能界で巻き起こった様々なニュースを題材にした、娯楽エッセイである。  

 

 

 定価はお買得の893円!  

 

 

 全国書店はもちろん、アマゾンなどの通販サイトでも手軽に購入できますので、以前からの読者の方、また初めて僕の著書に興味を持った方、どなた様もぜひ宜しくお願いします。

 先日、ある出版社の編集者氏(30代後半)がこんなことを言っていた。

「僕は子供の頃、大洋ホエールズのファンだったんです。ベイスターズになる前の80年代の大洋が一番好きでしたね」

 こういう‘時代限定’のプロ野球ファンって、結構いるものだ。特にON時代の巨人限定や秋山・清原・デストラーデ時代の西武限定、野村ID時代のヤクルト限定など、各球団の黄金時代に限定したケースが目立つ。チームの強さに魅せられてファンになり、贔屓の選手が抜けたり、チームが弱体化したりしたことで、次第に熱が醒めていったというパターンである。

 

 ちなみに、そういう時代限定のファンのことを「にわかファン」などと呼び、馬鹿にするような風潮が一部ではあるが、僕はあまり好きじゃない。いいじゃないか、ファンの形なんかなんだって。野球なんてものは、しょせん国民の娯楽であり、日本の文化の一つだ。それに興じる姿やファンのスタンスに正解なんてない。あるのは人間としての最低限のマナーだけである。

 

 そんなわけで、その編集者氏も80年代限定で大洋に興じていたというのだが、僕にはどうも腑に落ちない部分があった。なぜなら80年代の大洋はとてもじゃないけど黄金時代とは呼べなかったからだ。

 ミスターホエールズと称えられた松原誠が引退し、70年代にカミソリシュートで一時代を築いたエース・平松政次も衰えを隠せなくなった80年代大洋。新エース・遠藤一彦やオバQの愛称で親しまれた4番打者・田代富雄らが活躍したものの、チームはずっとBクラスに低迷。遠藤や田代が一線を退いた80年代後半なんて、暗黒黎明期のダメ虎と最下位を争っていたほど弱かった印象がある。大体、エース・欠端ってどういうことだ。

 

 しかし、編集者氏は不思議がる僕に当時の大洋のこんな魅力を説明してくれた。

「あの頃の大洋って野球ゲームでは、めちゃくちゃ強かったんですよ。当時はファミコンが出始めの頃で、元祖・ファミリースタジアムなんかスーパーカートリオが走りまくっていましたから」

 なるほど、確かにそうだった。あの頃、確かにファミコンが一躍大ブームになり、当時の野球少年たちはみんなこぞって元祖・ファミリースタジアムに夢中になった。僕は阪神ファンだったから阪神ばかりを選択してゲームに興じていたが、対戦相手が大洋を選択するとスーパーカートリオが嫌で嫌で仕方なかった記憶がある。

 

 大洋ホエールズのスーパーカートリオとは、ご存知の通り近藤貞雄監督が1985年に命名した高木豊、加藤博一、屋敷要の俊足打者3人の呼称である。彼らが1番から3番に並んだファミスタ版大洋打線は現実の試合よりもはるかに脅威的だった。なにしろスーパーカートリオはいくらなんでも足が速すぎる。バットに当たっただけで全部内野安打になるし、盗塁は全部セーフだし、外野を抜ければ全部ランニングホームラン。そんな反則技みたいな3人が続けて登場してくるわけだから、大洋と試合をすると、スーパーカートリオの3連続バント攻撃だけで簡単に大量点を取られてしまう。結果、あの頃の僕は「ファミスタの大洋は強い」、あるいは「スーパーカートリオはずるい」といった妙なイメージを子供心に抱くようになったのだ。

 

 おまけに「足が速い」ということだけでなぜかクラスの人気者になり、「50m何秒?」という平和な質問がやたらと男子の間で飛び交っていた少年時代である。俊足にもほどがあるスーパーカートリオは少年の目に無性にかっこよく映ったものだ。言ってみれば、当時の大洋ホエールズは‘ゲーム限定’の黄金時代だったのだ。

 

 最近の野球ゲームは技術革新が目覚しく、選手の能力がよりリアルに反映されているため、あの頃のような「極端な選手能力のデフォルメ」はなくなってしまった印象がある。バースのバットに当たれば全部ホームランになっちゃうような元祖ファミスタならではの非日常的な光景もまた、愛球アルバムの懐かしい1ページである。

 プロ野球ファン同士で雑談をしていると、「○○みたいな選手」という表現を頻繁に使用することがある。「西武の中村剛也って、若い頃の中村紀洋みたいな選手だよね」「中日のチェンって、昔の今中慎二みたいな投手だよね」などが、その使用例だ。

 きっとプロ野球ファンの頭の中には無意識のうちに同タイプの選手の系譜を繋いでいく習性みたいなものがあるのだろう。あらゆる選手のキャラクターを一言であらわすことができる便利な隠語。プロ野球の歴史の長さを実感できる、味わい深い会話の肴である。

 

 中でも僕のお気に入りは「年間の成績はすごいわけじゃないのに、なぜか年に一度だけは圧巻のピッチングを見せる投手」をあらわす隠語である。

 確かにこういう投手はいつの時代も一人はいるものだ。普段は安定感がないくせに、ごくたまに「メジャーでも打てないんじゃないか!?」と惚れ惚れするような神がかったボールを投げ、さくっと完封してしまう。潜在能力は誰もが認めるところだけに、否が応でもその投手に毎回期待してしまうのだが、なぜか他の試合では打たれまくる。野球ファンなら誰もが心当たりあるであろう、そんなタイプの投手をあらわす隠語とはなんなのか。

 

 思うに正解は「園川みたいな投手」じゃないか。

 もちろん、語源は1980年代中期から90年代にかけてのロッテで活躍したサウスポー・園川一美投手に由来する。

 

 現役14年間で二桁勝利は10勝をあげた1988年の一度だけしかない園川。しかし、それでも毎年のようにローテーションの一角を任され、村田兆治や小宮山悟、伊良部秀輝といった歴代エースたちにも負けない奇妙な存在感を放っていた。全盛期の年間勝ち星は安定して7勝から9勝で、ほぼ毎年大幅に負け越すという二桁敗戦の常連でもあった。10勝をあげた88年でさえ、負け数は15にものぼり、最多敗戦の逆タイトルを獲得。さらに93年にも15敗戦で二度目の最多敗戦を記録し、他にも最低勝率を二度記録したり、89年にはプロ野球史上ワーストとなる規定投球回に達しての防御率6.10を叩き出すなど、園川はなにげに逆タイトルホルダーでもあったのだ。

 

 しかし、歴代のロッテ監督はなぜかそんな園川のことを一向に見切らず、長年ローテーションの4番手、5番手に抜擢し続けた。それはきっと、園川が前述のように最低でも年に一度は必ず圧巻のピッチングを見せたからだろう。そりゃあ、あんな力強いボールをごくたまに投げられたら、誰だって期待してしまう。園川は何かのきっかけ次第で、球界を代表するような大エースになるはずだとファンのみならず、首脳陣をも幻惑させていたんじゃないか。周囲に期待させるだけ期待させといて、次の登板で見事に裏切る。そんな罪深い永遠のスパイラルが園川という投手の最大の個性であり、不思議な魅力だったと思うのだ。

 

 実際、園川は1987年から89年まで毎年1回ずつ完封勝利を記録し、その後も年間勝利数は一桁ながら目の覚めるような完封勝利はポツポツ記録するという奇妙な成績をコンスタントに維持していった。92年の園川なんて7勝9敗、防御率3.96という平凡な成績ながら完封勝利は三回も達成。いわゆる‘確変モード’に突入したときの園川のピッチングが、いかに凄まじかったかをあらわす数字だろう。かくして近年、中日の山井やヤクルトの増渕あたりがたまに凄まじいピッチングを見せると、つい「園川みたいな投手」という隠語が脳裏をよぎるようになったわけだ。

 昭和57年4月29日、阪急ブレーブスの山田久志投手が対ロッテ戦で完投勝利を挙げ、アンダースロー投手では史上初となる通算200勝を達成した。

 これによって山田は悲願の名球会入りを果たし、昭和63年に引退するまで通算284勝を記録。昭和40年代後半から50年代にかけての阪急黄金時代を支えた黄金のサブマリンは、その他にも17年連続二桁勝利(うち20勝以上4回、最多勝3回)や12年連続開幕投手といった数々の偉業を成し遂げるなど、まさに昭和年間を代表する大エースであった。

 

 さて、そんな山田が200勝を達成した前述の対ロッテ戦についてである。

 この試合の山田は完投勝利を飾っているのだが、その内容は9回6失点。つまり、味方が9点取ってくれたおかげでなんとか完投できたという、不甲斐ない投球だったわけだ。

 さらに興味深いのは当時のロッテの若き4番・落合博満に3本のホームランを浴びているところだ。この試合の落合は山田に対して5打数4安打の大当たりだった。

 

 山田と落合といえば球界では数少ない秋田県出身の先輩後輩であり、互いに「秋田一の投手と打者」と認め合う間柄。後輩の落合は試合前に200勝がかかっている先輩・山田について「ウンといじめます」と実に落合らしい不気味なコメントを残しており、終わってみればその通りの結果となった。さすがミスター三冠王だ。

 

 しかし実はこれ、打たれた山田のほうも圧巻だったのだ。

 落合が放ったホームランは3本とも山田の決め球であるシンカーを狙い打った結果であり、すなわち山田は最初から落合が「シンカー狙い」とわかっていたうえで、それでも3球とも正直にシンカーを投げたということだ。山田は自らの伝家の宝刀・シンカーに絶対の自信を持っており、落合に対して勝敗を度外視した「エースと4番の対決」を挑んだのである。

 

 そして山田は、この勝負に関してだけは見事に散った。結果はどうあれ、超一流同士による鳥肌の立つような逸話だ。

 同時期の「巨人・江川Vs阪神・掛布」もそうだったが、この時代のエースと四番の対決はエースの最高のボールに四番がホームラン狙いのフルスイングで対抗するという、オールスターさながらのシンプルさだった。

 

 そう考えると、この時代の一流選手たちは現代に比べて皆一様に強気であり、自らのプレーに対するプライドが非常に高かった。中でも山田は典型的だ。落合への3球もそうだが、それ以上に強烈だったのは彼が残した刺激的な言葉の数々である。

「神聖なマウンドで開幕投手が投げる第一球を先頭打者は打ってはならない」

 山田が言ったとされるこの言葉など、思わず背筋がゾクッとする。

 公正なスポーツ競技に、理屈を抜きにした絶対エースならではの美意識を持ち込み、あたかも儀式の礼節かのような投手哲学を主張する。山田は自分のオーラをよく知っている投手だと思う。彼ほどの一流投手じゃないと、何の説得力も持たない言葉だからだ。

 

 また、晩年に当時ルーキーだった清原和博にホームランを打たれ、「‘子供’に打たれて情けない。やってられない」と吐き捨てたこともあったし、若きエースとして頭角を現したときに日本シリーズで王貞治にホームランを打たれ、「天狗の鼻をへし折られた」と述懐したこともあった。

 すべてに共通しているのは山田の強烈なプライドと美意識だ。山田はグラウンドに散らばる野手の中で、ただ一人だけマウンドという小高い丘に威風堂々と仁王立ちする投手ならではの自己顕示欲を、これでもかと剥き出しにするエースだった。

 

 野球とはいくら審判がプレイボールと叫んでも、投手が第1球を投げないことには絶対に試合が始まらない稀有なスポーツである。それは裏を返せば、投手が試合を作るということであり、もっと刺激的な言葉を使えば「投手が一番偉い」「中でもエースは絶対王者だ」ということか。

 

 今になって懐古するに、山田久志の魅力はその実力だけでなく、絶対エースとしての圧倒的な「美しさ」にあった。流れるような芸術的なアンダースロー、マウンドに立つ風格ある背中、強打者を幻惑する魔球シンカー、そしてプライドと美意識に満ちた刺激的な言葉の数々。それらが見事なまでに融合し、美の輝きを放っていた。

 

 山田久志は美しいエースだったのだ。