昭和60年のプロ野球は虎フィーバー一色だった。かのバース・掛布・岡田のバックスクリーン三連発に象徴される猛打爆発で、阪神タイガースが21年ぶりのリーグ優勝及び史上初の日本一に輝いた年だ。
この年のセ・リーグMVPは、ご存知ランディ・バースである。今もなお史上最強の助っ人と称される伝説の長距離砲だ。この年のバースは日本中の注目の的だった。球団史上初の三冠王と王貞治が持つシーズン55本塁打という日本記録更新に肉薄していたからだ。
結果から書くと、周知の通りバースは三冠王は獲得したものの、シーズン本塁打に関しては55本の日本記録に一本及ばない54本に終わった。王が55本を放った時代は年間140試合制であり、一方のバースは年間130試合制での54本のため、当時巨人監督だった王は「試合数が少ないのはバースの不運。しかし、事実上抜かれたようなもの」と語っていたが、それ以上にバースが不運だったのは、その年のラスト2試合が対巨人2連戦だったことだろう。
その2連戦の前の時点で、バースの本塁打は54本。つまり、あと1本打てば王の記録に並び、2本打てば記録更新ということになる。したがって、当時のマスコミは「巨人投手陣はバースとの勝負を避けるのではないか」と噂していた。自軍の監督である王が樹立した偉大な記録を守るためだ。
バースも半ば諦めていたようで、2連戦の前に「私はガイジンだから、記録更新は無理でしょう」と語っていた。実際、この頃のプロ野球ファンは、今よりもっと愛国心が強かった印象がある。外国人選手はあくまで助っ人であり、言わば外様の出稼ぎ人が「日本が誇る世界の王」の記録を破ってもらっては困る。そんな世論の逆風がバースの記録更新に立ちはだかっていた。
しかし、当の王監督自身は毅然としていた。試合前に「正々堂々と勝負する」と明言。そしてその言葉通り、2連戦初戦に巨人のエース・江川卓を先発させ、その江川がバースに真っ向勝負を挑んだのだ。
結果は江川に軍配が上がった。バースに安打1本は許したものの、本塁打は打たせず、記録更新は第2戦に持ち越された。
すると、続く第2戦で後に物議を醸す歪な事態が起こった。この試合、5打席立ったバースに対して巨人投手陣は全17球を投じたのだが、なんとストライクは0。さすがにあからさまな敬遠策こそなかったものの、事実上巨人投手陣はバースとの勝負を避け、その結果バースはシーズン本塁打記録に1本届かなかったわけだ。
当時の王監督は、これに関して「敬遠の指示はしていない。投手が自主的にやったのだろう」と釈明した。さらに、その日の新聞を読んでみると、それが本当にプロ野球界的な公式見解になっていた。
しかし、後に僕が某巨人OBに聞いたところ、やはりあの敬遠策は指令が下されていたようだ。「バースにストライクを投げたら罰金」そんなお達しが、某コーチから巨人投手陣に言い渡されていたという。
もっとも、それでも確かに王監督は指示していない。あくまでコーチが自主的に動いたと説明できる。うーん、微妙だ。
最後に、そんな昭和の最強助っ人・バースが、実は阪神退団後ヤクルトに入団する寸前だったことをご存知か。
バースといえば、昭和63年のシーズン途中に愛息の病気に端を発する球団とのトラブルの末、阪神を解雇されたことが知られている。しかし、話はそこで終わっておらず、その年のシーズンオフに関根潤三監督率いるヤクルトがバース獲得に動いていたと、当時の関係者から耳にしたのだ。
その頃のヤクルト首脳陣は、若き逸材だった広澤克己と池山隆寛を一人前の主砲に育てるべく、二人の生きた教材となるような「大物の4番打者」を欲しており、そこでバースに白羽の矢を立てたわけだ。
しかも、バースとの交渉もスムーズに進んだ。年俸面の折り合いもつき、いざ契約成立というところまでこぎつけた。 しかし、当時のヤクルト関係者曰く、そこで球団上層部から「バース獲得を見送るように」という思わぬ横槍が入り、泣く泣く破談となったのだ。
「おそらく阪神球団が他の全11球団に『バースを獲るな』という御触れを回したのだろう」
とは、その関係者の述懐の弁。
果たして真相はいかに――。








