自分のことを語ると幸福感を得られるという実験結果。
リアルでもSNSでも同じだということ。
リアルで十分に自分のことを話せない分、SNSにエネルギーが向かうということもあるでしょうね。
もっとリアルでも自分のことを語ればいいのにと思います。
ただ、SNSを利用し、気軽に自分の心の中の何かを吐き出すことで、一定の心の安定効果も期待できると思います。
フェイスブックやツイッターを見ていると、そうやって無意識に心の安定を計っているような感じを受ける人もいます。
一方で、中毒性というのもあるでしょう。
常につぶやいていないとうずうずしちゃうみたいな。
SNSで自分のことを発信することに依存しちゃうというか。
そこまでいくと中毒症状的に逆に心が不安定になるかもしれないですね。
SNSのほうが自分を出せるとなると、コミュニケーションの主体がそちらになってしまうこともあるでしょう。
実験結果では、リアルでもSNSでも同じ幸福感が得られるということですが、決定的な違いは相手に合わせたコミュニケーションかどうか。
SNSに依存しすぎてしまうと、相手不在のコミュニケーションをしがちになってしまうかもという気がします。
「いいね!」は相手の存在を感じさせてくれますが、あくまで事後承認的です。
SNSに頼るあまり、相手の受け取りやすい玉を投げるキャッチボールの技術が下手にならないように気をつけなければいけないような気がします。


現役の公立中学校の数学の教諭が執筆した『みんな幸せな大人になれ!』を読んだ。

素晴らしい本だった。

プロの格闘家を目指し、諦め、なんとなく教師になった著者。

もちまえの威圧感をフル活用し、恐怖政治で生徒を押さえつける管理型指導を信条としてきた。

彼のクラスはいつも規律が守られ、「これぞ学校のあるべき姿」と疑っていなかった。

まわりの先生たちからも「良い指導ができている」と抜群の信頼を得ていた。

しかし、もっと生徒をコントロールしようと心理学を学び始め、目から鱗が落ちる。

今まで自分がしてきた管理的指導は、「表面的にいい」クラスを作っているだけであり、その内実はもろいものであることに気づくのだ。

怒鳴って威圧して、生徒を従わせるスタイルで有名だった彼は、180度の方向転換をする。

STEPと呼ばれる親子のためのコミュニケーション法をクラス運営に活かし、生徒の話に耳を傾け、気持ちに寄り添うスタイルの指導を開始するのだ。

彼は怒鳴ったり、ダメ出ししたりすることをやめた。

方針転換をしたあとしばらくは、生徒たちは彼の本気度を「試す」。

「どこまでやっても本当に怒鳴らない気かよ」というのを試す。

まわりの先生たちからは「甘やかし」「以前のスタイルのほうがいい」と批判を浴びる。

しかし、彼は一度決めたやり方を貫き通す。

恐怖という武器ではなく、生徒と教師の信頼関係によって、クラスをまとめようとする。

時間はかかるが、次第に効果が現れる。

教師と生徒の間に上下の関係がなくなったクラスでは、生徒同士の信頼関係も強くなる。

教師と生徒の間の勝ち負けの構図がなくなったクラスでは、いじめなど生徒同士の諍いも減った。

心理学を少しでもかじった者であれば当然の理屈だと思うのだけれど、世の中一般的には、特に旧来のやり方を疑わない教育現場においては、「まゆつば」となるのだろう。

教師が高圧的な態度で接することで、子どもたちの心にどんな影響があるのかも、心理学の理論にのっとりつつ、平易な言葉で分かりやすく解説されている。

心理学を知らない人にも説得力があるはずだ。

そして、表面的にいいクラスを作ろうと管理型指導をすることこそ、学級崩壊やいじめ、不登校やモンスターペアレンツの出現の元凶ではないかと彼は指摘する。

本の中では、「超進学校ほど、教師が管理的でない満足度優先型クラスが多い」という研究結果を紹介している。

名門進学校を取材する機会の多い私の感覚とピタリと一致する。

名門進学校ほど、教師が生徒を押さえつけようとしたりしない。

教師は生徒を信じ、待つ姿勢を貫く傾向があるのだ。

また、不登校になった経験のある生徒が通う全日型の通信制高校では、全教師が心理カウンセラーの資格を有している。

教師たちのポジティブな関わりによって、生徒たちが自信を取り戻し、友達や先生を信頼する気持ちを高め、楽しそうに学校に通い始める姿を取材した。

この本のいうところの満足度優先型のクラス運営がなされているのだろう。

最近は塾においても、講師が心理学やコーチングの勉強をすることが増えてきた。

教師が心理学を学ぶことによって得られるものは、生徒の心をコントロールするスキルではない。

教師自身が自分の心をコントロールし、生徒の気持ちを中心に据えたポジティブな関わりができるようになることだ。

このような知見が教育現場に十分に届いているようには思えない。

最新の医療を学んでいなかった不勉強な医者のせいで、著者は父親を亡くすという経験をしている。

その経験と、教師・学校の現状をなぞらえる。

そして、教師は、ベテラン教師も含め、盲目的に昔のスタイルを踏襲するのではなく、最新の理論に基づいたクラス運営の方法を学ぶべきではないかと訴える。

学校という舞台での話しだが、子どものしつけに悩む親にもお勧めだ。

心理学をベースにしたしつけ本を読めば、ほとんど同じような関わり合い方が書かれているだろう。

理屈はまったく同じだから。

しかし、そのような本を読むと、あんまりに模範的な理想論に思えてしまうことがあるのではないかと思う。

描かれるシーンがあまりに日常的すぎて、その現実ががらりと変わるとはにわかには信じられないからだと思う。

自分のからだにこびりついて離れない「信念」を捨てることへの心理的「抵抗」も生じるかもしれない。

しかし、舞台が学校となると、少し距離をおいて、「なるほどね」と思えるのではないかと思う。

また、会社組織のマネジメントにも参考になるのではないかと思う。

従業員がそこで働くことで感じる満足度や幸福感を上げる関わり方のヒントが見つかるのではないかと思う。

そして何よりこの本の素晴らしいところは、自分にこびりついている「非理性的な信念」を捨てさえすれば、人はいつからでも変わることができるという勇気をもらえることだ。

一人でも多くの教師そして親に読んでほしい。


みんな幸せな大人になれ!

みんな幸せな大人になれ!



拙著『男子校という選択』では、「男の子は徹底的にバカをして、失敗から学ぶことが多い。女子が一緒にいると失敗を見られることを嫌い、バカをしにくくなるが、男子校ではそれがない。思いっきりバカをして、失敗し、失敗から学ぶことができる」というようなことを書いています。これは多くの男子校の先生たちから聞いた話に共通する男子校のメリットです。

でも、そもそもなぜ、男子は「失敗から学ぶ」傾向が強いのか。その点については、拙著の中ではあまり深入りはしませんでしたが、ここであらためて考えてみたいと思います。

ただし、何の科学的根拠もなく、あくまで私が頭の中だけで組み立てた仮説でしかないことを最初にお断りしたうえで、お話ししたいと思います。

「人間は、言葉を持ち、伝承つまり“教育”ができるようになったことで、自らが進むべき進化の方向性を自分で決められるようになった。人間は、よりスピーディに環境に適応するため、“教育”という“新しい進化の方法”を身に付けた生物なのではないか」と思います。

ダーウィン的な進化の方法では、淘汰され、数世代をまたがないと、有効な能力を強化し、伝えることができませんでしたが、教育という手段を身に付けたことで、世代をまたがなくても、生きていくうえで必要なスキルを、直接次世代の子どもたちに伝えることができる。

これによって、「進化」のスピードを早めることができた。

話しをシンプルにするために、狩猟採集民族の生活をイメージしてください。

たとえば、誰かが「バッファローを狩って食べることはできないか」と考える。

槍を作って挑んでみるが、あえなく討ち死にする。

「それでは」と、別の誰かが、「落とし穴を作り、部族のみんなでバッファローをそこに追い込む」という方法を思いつく。

それがうまくいく。

すると、その部族はバッファローという新しい糧を得て、繁栄する。

「こんなことをしてみたらどうなるか」と、あれこれ「実験」してみる。

実験に失敗はつきもの。

時には命すら落とす。

それでも諦めず、失敗から学ぶ(=学習)ことでで、生き抜くことを有利にする新しいスキルを獲得する。

そのスキルをすぐに次世代に引き継ぐ(=教育)ことで、ヒトは飛躍的に進化したのではないかと思います。

ところで、ヒトは一回の出産で、基本的には一人の子孫しか産めません。

優秀な子孫をたくさん増やすためには、女性がたくさん必要です。

しかし、優秀な男性は少数でもいい。

生物学的には。

だから、リスクを冒すのは男性であるほうが効率的。

だから、進化という文脈において、男女の役割が分化した。

つまり、

男性は「リスクを冒す係」で、

女性は「普遍的でいる係」なのではないか。

数学に例えると、女性が「定数」で、男性が「変数」要素として、出てくる「解(=次世代)」を変化させる役割なのではないか。

だから、槍でバッファローに挑むような無鉄砲は、男の役割として、本能に組み込まれた。

そう考えると、さらに、もっと遺伝的に男性がリスクを犯す役割を担うように仕込まれているんじゃないかと妄想は膨らみます。

例えばこうです。

生物的に、あえていろいろな特徴を持った多様な男性を作り出しておき、環境が変化しても絶滅のリスクが少ないようにできている、とか。

ときには彼らを「本能的に」さまざまな未知なる環境に誘い出し、そこに適応できるかどうかを試し、うまくすれば生息地域を拡大する、とか。

つまり、男性が遺伝子的な多様性を担保することで、様々な環境適応へのリスクを回避するような仕組みになっていたりして、、、なんていう妄想です。

(もし、本当にそうだとしたら、男性は女性よりも、「個体差が大きい」という傾向があるはずだと思うのですが、そういうことが科学的に検証されているのかどうかは全く知りません。。。)

以上の話しをまとめますと、、、

1自然淘汰と、

2失敗からの学習と次世代への教育

により、ヒトは飛躍的に進化した。

進化の方向性を吟味するための「実験台」、もっといえば「毒味役」としての機能を、男性は本能に埋め込まれた。

そして、未知なることに挑戦し、失敗しながらでも新しいスキルを身に付ける能力に長けた男性が多くいる部族ほど進化を加速し、多くの子孫を残すことができた。

だから、男性は、本能的に無茶なことに挑戦したがる。

一見無意味なバカなことをやろうとする。

一方女性は、遺伝的にも安定し、失敗すれば命を落とすようなリスクは犯さない存在であり続けた。

いってみれば、女性はヒトとしてぶれない幹のようなもの。

幹が簡単に変質してしまうのはリスクが大きいから、あまり変化しない。

一方男性は、どっちの方向に進むのがいいか、錯誤しながら伸びる枝葉のようなもの。

環境によって自在に形を変える。

適応できなかった部分は幹からそぎ落とされる。

生物学的に、女性のほうが男性よりも強い存在であるというのも、幹と枝の関係だからではないでしょうか。

長くなり、わかりにくくなってしまいました。

すみません。

要するに、「種の保存」という観点でいえば、女性が「主人公」であり、男性は女性のための「毒味役」なのではないかということです。

(そのほかに「ボディガード」や「食料調達係」などの役割ももちろんありますが、要するに女性が主役ということです。)

こう考えると、一般的にいわれる男女の違いの傾向について、いろんなことがしっくりくるのですけど……。

こういう研究されている学者さんとかいないのかな。

こういうのは何学っていうんだ?

単なる生物学でもないし、文化人類学だけでもないし。

さて、さきほど教育は人間が手に入れた新しい進化の手段なのかもしれないということを書きました。

近いうちにその続きも書きたいと思います。

自分でも忘れちゃいそうなので、ちょっとだけ前振りします。

ダーウィンの進化論的にいえば、多様な進化を遂げ、多様な子孫を残す種ほど、生き残り、繁栄する機会が増えます。

多様性が優秀な進化のキーワードです。

だとすると、教育も、多様なほうがいいはずだということになります。

ファシズム的な教育はリスキーだということです。

私は常々、「教育や子育てには多様性が必要」と申しております。

そういうことなんです。

乞うご期待。


2月1日の朝日新聞天声人語。

日本の人口が1億を切る日が近いということから、少子化について触れている。

その視点に共感した。

先細りを見据えた制度改革や少子化対策が欠かせないが、語られ方に違和感もある。子どもたちを将来の労働力、納税や社会保障の担い手として「マス」で見過ぎてはいないだろうか。私感だが、この社会が「生身の子ども」に向ける目はどうも不寛容だ。

公の場で子が泣けば、周囲の不機嫌に親は縮こまる。遊び声さえ迷惑がられ、「育休切り」は後を絶たない。その他もろもろ、である。年金の算盤は大切だ。だが赤ん坊が「生まれてきたい」と思う世の中も遅れず整えていきたい。

全く同じような主旨のことをどこかのコラムに書いたことがあると思い、探してみましたが、見つからなかった。

日本の少子化対策のために子どもを産もうとする親など一人もいない。

「このまま若い人が減ると社会がもたない」と言われている社会で、子どもを産みたくなるわけがない。

「人口が減っても大丈夫なコンパクトな社会」の設計図が描けてこそ、子どもを安心して産めるのではないか。

そんなことを確かに書いた。

それと、子どもに対するこの社会の不寛容さについては折に触れて言及している。

子どもをアフリカやモンゴルの大平原に放牧していれば、叱らなきゃいけないことなんて、ひとつもありゃしない。

一方的に子どもという弱者に制約を押しつけているのは、社会のほうなのだ。

「迷惑行為」を減らすには二通りの方法がある。

ひとつは、その行為自体をやめること。

もうひとつは、その行為を迷惑だと思う狭い心を広くすること。

多くの人が後者を選ぶ社会のほうが、結局はみんながのびのびと暮らせると思うのだが。

最近だいぶ露出が減りましたが、一時期、ある保育園・幼稚園での教育法がだいぶメディアに取り上げられていました。

子どもを乗せてスイッチを入れるにはこうすればいいというメソッドが絶賛されていました。

そうやってスイッチを入れられ、跳び箱は10段跳べちゃうし、ブリッジしたまま歩けちゃうし、鍵盤ハーモニカも音を聞くだけで曲が弾けるようになっちゃうしという子どもたちの姿が放映されました。

「すごーい!」という歓声がもれるのはわかるのですが、その「すごーい!」、どこかでも聞いたことがあります。

上海雑伎団を見ているときの「すごーい!」といっしょです。

それが何に役立つのか、ということです。

ま、いろいろできるようになって自信が付くことはいいことです。

能力を最大限に引き出すという理論においては間違ってはいないと思います。

そういう教育が本当にすごいと思う親御さんはそういうところに預ければいいと思います。

ただ、そうやって大人が「仕掛けて仕掛けて」というのが教育だとは私個人は思えないのです。

おかしな部分をいちいち指摘するのもバカバカしいので、やめます。

でも、一点だけ、さらっと書けそうなので、書きます。

そこの園児は卒業までの3年間で約2000冊の絵本を読破するらしいです。

大人だって、年600冊以上読む人は希でしょう。

テレビではそれにも「すごーい!」と歓声が上がります。

事実としてたしかにすごーいのですが、それが子どものためになるのかというと、そうじゃない気がします。

だって、子どもって、ほっといたら同じ絵本を何十回も繰り返し読むじゃないですか。

新しい絵本を買ってあげても、お気に入りの本を刷りきれるまで読むみたいな。

ママに読んでもらうのに飽きたら、パパに読んでもらったり、おばあちゃんに読んでもらったり。

何度も何度も読み聞かせてもらい、自分でも読んでみて、そのたびに笑って、泣いて、怒って・・・。

大人にはまねのできない読書法ですよね。

そうやって、何度も読み返しては、そのたびに新しい発見をしたり、新しい感じ方をしたり、別の解釈をしてみたり・・・ということをして想像力を膨らませたり、言葉の感覚を体に染みこませたりしているんじゃないかと思います。

でも、その園では、「同じ本を何度も読むよりも、たくさんの本を早く読んだ方が偉い」という大人的価値観がはびこってしまっています。

「大人的価値観」。

子どもにとってじゃまなものさしじゃないかとと思うのです。

君が代斉唱問題について、最高裁が判断を下した。

「処罰は慎重にすべし」。

弁護士でもある大阪市長はどう受け止めるのか。

大阪市長は「組織マネジメントの問題」と言う。

原則、組織の一員は、その組織の方針に従うべし。

大きな組織になればなるほど、いちいち末端の意見を吸い上げたり、議論したりしていては事が進まないという側面があることも事実だ。

組織運営上、トップダウンのマネジメントも必要だ。

が、組織だからといって、なんでもトップダウンしていいわけではないだろう。

時と場合とテーマによる。

国歌・国旗は、個人の歴史観や思想、信念に大きく関わるセンシティブな問題。

原理主義的な組織マネジメント論を持ち出すべきテーマではないだろう。

国民全員の賛成が得られなければ国歌も国旗も定められないというのは違うように思う。

しかし、国歌・国旗に定められたからといって、それらに対しての個人の歴史観や思想、表現の自由が認められないのも、おかしいのではないか。

まるで踏み絵だ。

どうしても踏めずに、処罰を受けた者がいた。

しかし、キリストへの信心はそのままに、「踏んだからといってキリストを侮辱するわけではない」と自分を納得させ、割り切って、形の上では踏み絵を踏み、処罰を免れ、信仰を続けた者もいた。

そして、「効果は上がらなかった」というのが歴史的な評価だ。

これから大阪で行われる踏み絵が、どれだけ徹底されようとも、人の信念を変えることはできないだろう。

本気で国歌や国旗を敬愛する心を育てたいと思うのなら、強制はむしろ逆効果でしかない。

市長だってわかっているはずだ。

なのに、なぜ、こだわるのか。

大阪市長が、教育を通じて、現場の教員や生徒達に伝えたいことは、次のようなことだろうか。

-本音と建て前をうまく使い分けよ。

-長いものには巻かれておけ。

-組織の命令には従う人間であれ。

etc.

それらが、これからの時代を生きる若者に必要な信念であろうか。

否。

個人の考えとしては、国歌や国旗に対する嫌悪もなければ、起立することへの抵抗もない。

むしろそうするたびに「過去を省みる」機会をもつことは良いことだと思う。

反対の考え方があっていい。

個人の自由だ。

ここで論じたいのは、国歌・国旗に対する考え方ではない。

理想に燃える教職員と生徒達がいる教育の現場で、組織マネジメントとしては決してお手本とはいえないトップダウンの「押しつけ」がまかり通ることの恐ろしさ。

教育の名の下に、思想や表現の自由もが認められないことの恐ろしさ。

親であればわかるはずだ。

子どもに何かを強制をしたところで、反発心をあおるのみ。

子どもに本気で何かを伝えたいのであれば、必要なのは強制ではなく、対話。

会社の中のマネジメントでも同じだろう。

同様に、このような「強制」がまかり通れば、「反発心」が増幅され、国はますますばらばらになる。

「親を大事にしろ」と、ルールで子どもを縛る親がどこにいるだろうか。

ますます「器の小さな親」と思われるだけだ。

大事にされる親であるために必要なのは、子どもたち自らが「大事にしたい」と思える立派な親であろうとすることだ。

「国を大事にする心」を育てるのに、何も国歌・国旗にこだわる必要はないのではないか。

本末転倒。

国歌に歌わされ、国旗に振られているのは、ほかでもない大阪市長である。

私立中高一貫校の話し。

最近、学校としてリニューアルし、綿密な学習計画を掲げ、「手取り足取り勉強を教えて、必ずいい大学に入れます」といういわゆる「お膳立て教育」を標榜する学校が増えています。

そこまで面倒見がいいのなら、、、ということで、人気も集まっています。

しかし、本当にそれでいいのかと疑問に思います。

これからの社会で生きるために必要な力は、いわれたことを正確にこなす能力ではなく、自ら課題を発見し解決する能力だといわれています。

大学受験というのは、自分が決めた目標に向かって、自分で長期的な計画を立て、実行するプロジェクトです。

途中、予定通りにいかないこともあれば、モチベーションが保てなくなることもあります。

仕事をやりとげるのと同じプロセスです。

人に指示されるのではなく、自分で考え、試行錯誤して、目標を達成すれば、課題発見能力、課題解決能力が養われるます

自分に合った参考書や塾を選ぶのも、自分に合った勉強法を追求するのも、やる気がなくなったときに自分を奮い立たせる方法を見出すのも、大切なことです。

しかし、先に挙げたような「お膳立て教育」式の学校では、「学校の言う通りにやっていればよい」らしいのです。

たしかにそれでも大学には合格できるかもしれません。

でも、それでは問題発見能力、問題解決能力は育たないのではないでしょうか。

これから社会に羽ばたく人材を育成する学校として、真逆の教育をしてしまっているのではないかと思います。

その点、いわゆる伝統校というのはいい意味で面倒見が悪いものです。

例えば1年間の世界史の授業が、フランス革命だけで終わってしまったりという名物先生がいたりします。

「学校では学問を教える。また、その学問を通しての物の見方を教える。受験勉強をしたいなら、塾や予備校でやりなさい」というスタンスです。

一見、面倒見が悪そうだけれども、そちらのほうが本質的な気がします。

「受験勉強なんて意味がない」という人は多いですよね。

その通りだと思います。

だからこそ、その意味のないことのために6年間を使うより、本質的な学問に6年間を使い、地頭を鍛えた上で、意味がない受験勉強のテクニックは塾や予備校でできるだけ短期間で身に付けて大学受験に望むスタイルのほうが、これからの時代に即しているように思います。

あえて面倒見の悪い学校を選ぶという視点が、これからの私立中高一貫校選びには必要なように思います。

拙著『男子校という選択』3刷り決定!

アマゾン、楽天ブックスでは欠品状態が続いており、ご迷惑をおかけします。

書店には在庫が十分あります。

中学受験のコーナーもしくは新書のコーナーにおいてあります。

よろしくお願いします。

danshiko

学校や大学の先生を取材すると、たまにだけどイタイ先生に当たることがあります。


「これからもっとも必要なのはコミュニケーション能力なんです」といいながら、相手の話を最後まで聞けなかったり、持論に固執したり。。。

アイタタタ。。。


「論理的思考力が学力の土台です」といいながら、話しが飛躍しまくってたり、質問に対する答えが答えになっていなかったり。。。

アイタタタ。。。


「想定外のことにも対応できるような能力が必要」といいながら、予期せぬ質問が投げかけられると、うろたえ、しまいには「急にそんな質問には答えられない」とむくれてみたり。。。

アイタタタ。。。


そしてもっともイタイのは、彼らがそのことに気付いていないこと。。。

学校は、偏差値や進学実績ではなく、先生を見て選ぼう。


この本に載ってる先生たちにはそういう先生はいませんので、ご安心を。

danshiko

「世の中には男と女がいるのだから学校も共学が自然」というのは一見正論のように見えます。

多くの人がそう思っているのではないでしょうか。

しかし本当に共学は自然なのでしょうか。

戦前までは中等教育(中学・高校)においては男女別学がスタンダードでした。

世界的に見てもそうです。

江戸時代だって、年頃の男子は「若衆宿」、女子は「娘宿」と呼ばれる同性だけが集う組織に参加し、男として、女として、それぞれの修業を積む文化がありました。

同様の文化は世界中に見られます。

しかも、チンパンジーだって思春期には、オスはオスでつるみ、メスはメスでつるむといわれています。

人格形成における重要な時期である思春期において、男が男だけで過ごし、女が女だけで過ごすというほうが、どうも自然なようなのです。

共学という新しいシステムは、1950年代以降、男女機会均等の目的で始められました。

当時は男女の教育格差があったので、当然の発想だったのかもしれません。

しかし、皮肉なことに、共学では、「男子は男子らしく振る舞い、女子は女子らしく振る舞う」というステレオタイプなジェンダー思考を強化するという研究結果も報告されています。

むしろ男子校の男子生徒が合唱を好んだり、外国語の発音を楽しんだり、女子校の女子生徒が数学や理科に積極的に取り組んだりと、ジェンダー的な固定概念の壁を乗り越えやすいいう事例が数多く報告されています。

男女別学の学校のほうが、総じて学力が高いという調査結果も海外では多数報告されています。

男子と女子では授業の進め方を違えたほうがいいという報告は、日本国内にもあります。

「男の子に元気がない」というのは日本だけではなく、全世界的に報告されている事象です。

その原因として「共学」という教育環境があるのではないかと指摘する専門家の意見も少なくありません。

そして、かつて日本に共学化を迫った張本人であるアメリカでも、現在は男女別学化の流れにあります。

最初に書いた「社会には男と女がいるのだから学校も共学が自然」というロジックに落とし穴があります。

このロジックは、「学校は社会の縮図である」というのが前提になってしまっているのです。

学校が社会の縮図であるならば、生きるために必要なことを学校がすべて教えなければなりません。

実際にしつけからキャリア教育からすべて学校に押しつけようとする動きがありますが、それが正しいこととはあまり思えません。

学校が社会の縮図であるならば、来るべきグローバル社会に向けて、インターナショナルな背景を持つ教員や生徒をもっと増やさなければなりません。

学校が社会の縮図であるならば、だまし合い・裏切りも含めて、社会のドロドロした部分までも教えなければいけません。

男女のコミュニケーションは、かつては地域社会などの中で自然に行われていたことでしょう。

それも学校の中で担保しなければならないのでしょうか。

どこまでが学校の役割なのでしょうか。

核家族化、地域社会の希薄化によって、子どもを取り巻く教育環境は貧弱になっています。

だからといって何でもかんでも学校の機能に組み込んでしまうのはいかがなものかと思います。

つまり、「共学か、男女別学か」という議論は、決してジェンダー論などではなく、「学校にどこまでの機能を求めるか」という問題なのではないかと思うのです。

12月12日 新著が発行されます!

『男子校という選択』

danshiko

「東大合格トップ10の8校は男子校」「ガリ勉は疎まれ、遊んでばかりいるのも格好悪い」「男子校の出身者は彼女ができない!?」ーーーー。共学化が進む中、中高の思春期を「男」だけで過ごす、その利点とは何か。現役教員や在校生、卒業生への取材をもとに、「男の園」を徹底解剖する。

第一章 男の子を取り巻く環境の何が変わったのか

第二章 「偏差値60の共学」より「偏差値54の男子校」

第三章 現役教員が本音で語る「男子校の良いところ、悪いところ」

第四章 バンカラ?それともアカデミック?「男の園」を解剖する

第五章 大切なことは、みんな学舎で教わった

第六章 海外では男子校の価値がこんなに高い

第七章 「脱・草食」のためにも、男子校のススメ

日本でもかなり浸透してきた観のあるフェイスブック。

そのおもしろみの象徴が「いいね!」ボタンですね。

「いいね!」をたくさんもらうとやっぱりうれしい気がします。

だれか「いいね!」してくれてないかなと、ちょくちょくフェイスブックを見ちゃいますよね。

というように、自分のコメントに対して「いいね!」してもらう数にばかり気が行きがちなのですが、

実は、自分が友だちのコメントに対して「いいね!」する数って、

それ以上に重要なんじゃないかって思うんです。

自分の気持ちに余裕があるときにフェイスブックを開いて、

友だちのコメントなんかをゆっくり眺めて笑ったりしていると、

自然とたくさんの「いいね!」を押しています。

しかし、自分の気持ちに余裕がないときは、自分がもらった「いいね!」の数だけを気にして、

友だちのコメントに「いいね!」をする余裕がありません。

つまり、友だちのコメントにつけている「いいね!」の数が、

自分自身の心の状態の良好さを物語っているのではないかと思うのです。

そう考えてみると、最近、「いいね!」してません。

すみません!

できるだけ「いいね!」を押すようにしたいと思います。

そうすることで、余裕がない心に余裕が生まれるという作用も期待できると思います。

そして、この「いいね!」ってフェイスブックだけの世界ではないですよね。

普段の生活の中でも、身の回りのひとやことに、「いいね!」することは可能だと思います。

マウスでクリックするのではなくて、実際に「いいね!」って言ったり、

ニッコリ笑ったりすればいいんだと思います。

きっとフェイスブックで友だちに「いいね!」ができていないときは、

実生活でも身の回りのひとやものに、「いいね!」できていないんじゃないかと思います。

注意したいものです。

特に子どもたちにはどんどん「いいね!」してあげたいですね。

最近「いいね!」が足りてないかも。

反省。

12月16日日本経済新聞社より「0歳からやっておきたい教育」というムックが発行されました。

おおたはスーパーバイザーとして創刊に関わらせていただきました。

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自然の美しさ、楽しさ、厳しさを教えるのは父親の重要な役割の一つ。

だからといって週末ごとに遠出して、山奥まで行く必要もないと思います。


子どもにとっては天然記念物のチョウチョもモンシロチョウも同じチョウチョ。

アリだってダンゴムシだってよく見れば面白い。

公園にあるブナの木だって、世界遺産の森に生えるブナの木だって、近くからよく見て、触れて、感じてみれば同じ。


都会には自然が足りないなんていうけれど、そんなことはないでしょう。

足りないものがあるとすれば、身近な自然を感じる感性ではないでしょうか。


近所の公園のお花畑に咲く花の名前をいくつ当てられるでしょうか。

石をどかせばコガネムシの幼虫やハサミムシが必死に生きている姿を見ることができます。

知っているつもりになっている近所の公園でさえ自然の不思議と神秘であふれているのです。


子どもはそのことをよく知っています。

道端に生える名もない草花を見て「この花きれい!」って素直に感動します。

肩書きや値段に惑わされない純粋な感性。

その感性を守ってやりたい。


身近な自然を感じる感性って、身近なしあわせを感じる感性とどこか通じるような気がします。

(拙著『パパのネタ帖』より)


そのことに気付かせてくれたのは、ほかでもない、子供たちなんですけど。

新人社員が現実性の低い企画書を持ってきました。

「これではダメだ」と突き返したとき、、、

A 「やっぱりダメですよね」とあっさり引き下がる新人

B 「どこがダメなんですか!」と食い下がる新人

どちらが見込みあると思いますか?

Bですよね。

では、スーパーのお菓子売り場で、子どもに「これほしい」といわれて「ダメ」と答えたとき、すんなり引き下がる子どもと、それでも食い下がる子どもとどっちが見込みがあるでしょうかね(笑)。

親から見るとやっかいなことにも、その子が将来伸ばしていかなければいけない大事な能力が隠されているということなんです。

代表的なやっかいなことにどんな意味があるのかざっと説明します。

●ごねる・・・未熟なプレゼン。あきらめない力を養う。

●わがまま・・・100%聞いてもらいたいわけじゃない。10%でも受け止めてもらえれば満足する。

●がんこ・・・曲げない意志力を養う。意地を張ることの損益分岐点を見極める。

●口答え・・・強い者への反抗。勇気の証し。不屈の精神を養う。論理的思考も育つ。

●甘える・・・いざとなったときには甘えられる安心感があることで人は冒険できる。

●暴れる・・・あふれるエネルギーの証し。エネルギーを注げる場を設けてあげる。

●騒ぐ・・・エネルギーの使い方を試している。エネルギーを集中させる方法を教える。

●壊す・・・物の構造を調べている。物理的視点への入り口。

●汚す・・・物の感触、化学反応を調べている。化学的視点への入り口。

●言葉づかい・・・人の反応から、言葉の持つ本来の意味を知る実験。

●うそ・・・自分を守りたいがための反射的反なうそに対しては、そんなうそをつかなくても常にパパやママが見方であることを教える。

●弱いものいじめ・・・自己有力感を味わいたい。そんなことをしなくても十分強いことを教える。

●意地悪・・・自分を守りたい。何を恐れているのか聞いてあげる。安心させる。

●ルール違反・・・ルールがある意味と、守ることの意味・無意味を教える。

●失敗・・・失敗の反対は成功ではなく、何もしないこと。挑戦をほめる。

●いたずら・おふざけ・・・自分がどこまでできるか、こんなことをしたらどうなるのかなどを試す実験。うちからわき上がる好奇心の強さの証し。

●けんか・・・コミュニケーション、コラボレーションの能力の基礎となる。人間に対する基本的信頼の醸成。

取り返しの付かないこと以外、子どもの子どもらしい未熟な行動をむやみにとめてはいけません。

親の懐が深ければ、子どもはより大きく伸びるのです。

きっと部下を伸ばそうとする上司にも同じ心構えが必要です。

膵臓がんということだったからそれほど長くはないとは思っていました。

がりがりにやせていく姿を見るのはつらかった。

それでも、この人には1日でも長く生きてほしいと思っていました。

とうとう逝ってしまいました。

一度もあったこともない、どんな人なのかほとんど知りもしない。

でも、さみしくてしょうがない。

アイルトン・セナが死んだときも同じ感覚でした。

知り合いでもないのに、涙が出ました。

訃報を知ったのは、ちょうどiPhone 4sに関しての記事を書いた後でした。

iPhone 4sが発表された10/4の新製品発表会に「がっかりした」というコメントを多数見て、その当てつけとして書いた記事でした。

http://papaswitch.nifty.com/blog/2011/10/iphone-4s.html

「もっとすごいものが発表されるのかと思った」。

無理もない。アップルはこの数年、新製品発表のたびに世界を驚かせてきましたから。

私たちはそれに慣れっこになってしまったんですね。

家に帰ってくるたびにすてきなお土産をもってきてくれるお父さんのように、いつでも何かすてきなものをもってきてくれることを当たり前のように思っていたんですね。

でも、とうとう彼は逝ってしまいました。

これからは誰がすてきなものをもってきてくれるのでしょう。

まるでドラえもんの4次元ポケットのように、ジョブスはみんなの夢を叶えてくれました。

ほんとドラえもんのような人でしたね。

私たちは「ドラえもん!何かいいもの出して」とせがむのび太です。

ドラえもんを失ったのび太はこれからどうすればいいのでしょうか。

ドラえもんに頼らず、自ら歩まなければいけません。

「今日が人生最後の日だとしたら・・・」。

ジョブスの有名な言葉です。

本当に、人間、いつ死ぬかわからない。

その緊張感の中で生きるからこそ、毎日は輝いて見える。

ジョブスのような輝かしい功績を残せなくていい。

「今日が人生最後の日だとしたら・・・」と思うだけで、人生は輝く。

ネイティブ・アメリカンの有名な言葉に次のようなものがあります。

朝起きたら、太陽の光と、おまえの力とに、感謝することだ。

どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それはおまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。

(ショーニー族の首長、テクムセ1768-1813)

※『インディアンの言葉』(ミシェル・ピクマル編、中沢新一訳)より

感謝する力はしあわせを感じる力に直結します。

自分にはしあわせが足りないと思うなら、きっと足りないのはしあわせではなくて感謝する力ではないでしょうか。

一心不乱に自らが思い描くしあわせに向かって突き進むのもいいけれど、毎日の生活の中の小さな「幸福」や「喜び」に気づこうとするだけで、その100倍以上のしあわせが感じられるのではないか。

しあわせはつかんだり、得たりするものではなく、感じるもの。

あらゆるもの、あらゆることに感謝する気持ちをもてば、「幸福」や「喜び」がすぐ手の届くところに、両手に抱えきれないほどいっぱい、思いがけず与えられていることに気がつくはず。

※拙著「パパのネタ帖」より

身近なしあわせに気づき、感謝する能力は、しあわせになる能力。

それを「しあわせ力」と呼んでいます。

私が子どもに身に付けてほしいいいちばん大切なことは「しあわせ力」。

だから私は毎朝子どもに「おはよう。今日も会えてうれしいよ」と伝えます。

そして私は常に「今、自分は世界でいちばんしあわせである」と信じて疑っていません。

つらいことはもちろんあります。

でも、それらすべてを含めて今いる自分が好きです。

そんな父親を見て、子どもたちも自分が好きになってほしいと思います。

今の自分が世界でいちばんしあわせだといつも感じられる人になってほしいと思います。

ナルシシストと言われようが(笑)。

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昔、小学校の教室の黒板の上には、「明るく、元気で、素直な子」みたいな感じの標語が額縁に入れて飾られていた記憶があります。

今の学校にもそのままの言葉ではないけれど、それに似たような言葉が飾られています。

(ちなみに、私が数年前まで務めていた私立の小学校にはそれらしきものはありませんでした)

子ども心に「なんでこんなものがあるんだろう。おかしいな」と思っていたのを覚えています。

「明るく、元気で、素直な子」なんて、大人にとって都合がいいだけじゃない。

「根暗な子だっていいし、元気じゃない子だっていいし、ひねくれ者だっていいじゃない」と思います。

いろんな人間がいるから長所短所を補完しあえる。

社会が成り立つ。

しかし、あの標語には学校や先生主導で「自分たちにとって都合のいい子」の枠にはめようとする、教育が陥りやすいもっとも危険な罠の臭いがします。

しかもそれを毎日子どもたちに見せつけるというのは、洗脳以外の何物でもないでしょう。

明るくなきゃだめだという価値観を植え付けられるから、子どもたちは根暗な子をいじめのターゲットにします。

元気じゃなきゃだめだという価値観を植え付けられるから、体が弱い子が肩身の狭い思いをします。

極めつけは「素直な子」。

本当の意味で「自分の気持ちに素直な子」は大人の言うことなんて聞くわけがありません。そのほうが健全です。

それなのに、大人に従順な子ほど偉いことになる。

昔「NOと言える日本人」という本がありましたけれど、そもそも日本人が「YES」しか言えなくなったのは、この教育のせいだと、私は昔から信じて疑っていません。普通に成長していればちゃんと「NO」も言えるようになるはずです。

特に高校受験では内申書がものをいいます。

内申書では、学校の望む生徒のあるべき姿に近ければ近いほど良い点数となる部分が多分にあります。

これではまるで「日本1億総YESマン化計画」です。

だから、企業による組織ぐるみの偽装が行われても誰も「NO」を言えない人ばかりが育つ。ちょっと前に多発した組織ぐるみの偽装事件で謝罪するおじさんたちを見てそう感じました。

そういうおじさんほど「今の親はしつけがなっとらん!」なんていってたりして。。。

そうやって小学校のうちから健全な自己主張の機会を摘み取られて成長した若者たちが、企業に就職すると、そのとたんに「自分の考えを言ってみろ」「自己主張のない奴らばかりで困る」「外国人のほうが骨がある」などと揶揄されます。そりゃ無理ってもんです。かわいそうです。草食系に育つわけですよ。早々に牙を抜かれているんですから。

学校の教育姿勢はそう簡単に変わるものではありません。

でも、少なくとも親である私たちは、子どもたちの健全に自己主張する能力を伸ばしてあげたり、世間一般的には一見短所に見える長所を伸ばしてあげたりというかかわりを忘れないようにしたいと思います。

自分の子だけでなく、よその子に対してもです。

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