近さと遠さは、全体と部分の関係でもある。
もちろん、近さが全体という意味で。
[photo : ウプサラ大学, 2010]
近さと遠さ。考えれば、それがずっとテーマだった気がします。
* * * * *
2010.7.21. wed 15:00-17:00
総合地球環境学研究所
「暮らしに寄り添う」
話し手 : 三谷龍二さん(木工デザイナー)
「ものを作るということは、作家がものを作るというだけではないと思います。もっと広く、人間のもっと本能的な部分につながっているのではないでしょうか。素材に触れるよろこびや、ものが自分の手から生まれるよろこびは、ものを使うよろこびと同じ質のものだから、こんなに複雑な社会のなかで、もっと単純に人が生きていけるということや、手間をかけて暮らすことの気持ちよさ、頭だけでなく手を動かすことの大切さを伝えることも、もの作りの仕事といってもいいと思います。もっと単純な仕方で、僕たちは生きていける。どこか遠くへ行かなくても、ここにいて豊かな世界に触れることできる。どれもみな、ものを作ることにつながっていることだと思うのです。」
―― 三谷龍二 手とこころの関係 より
最近、「暮らし」という言葉をよく目にするようになりました。
確かに日々の暮らしへとまなざしを向ける人がふえてきているようです。エコ意識の高まりもそうした傾向の現れと言えるでしょう。ですが、「環境に優しい暮らし」とか「丁寧な暮らし」とか、そんな作られた「暮らし」イメージを追っかけているだけのことってないでしょうか。ブームとは裏腹に実際は、日々の暮らし、つまり自分にとっていちばん近くの「ここ」が「どこ」のことなのか見誤ってしまう人が多いような気がします。
やはりよく目にする「もの作り」というフレーズにも、同じような危うさが潜んでいると言えるかもしれません。それでもなお、ものを作るということには、私たちをもう一度しっかりと暮らしに接続する何か――こんな時代だからこそ、いま一度立ちどまって自分たちの暮らしについてよく考えるための手がかりがひそんでいるように思うのです。
今回のテーマは、いわば「もの作り的思考」のすすめ。木工デザイナーの三谷龍二さんといっしょに、もの作りがいまどこへ向かおうとしているのかたどりながら、現代の「暮らし」のカタチについて考えていきます。
photo by 三谷龍二
いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
走つてゆくのは、自転車自転車
向ふの道を、走つてゆくのは
身体がおぼえていると言えば、“詩”というかたちで紡ぎだされる言葉こそ、まさにそういう類いのものだ。頭でどうこう後付けするのでなく、身体が知覚し、理解し、記憶する言葉。
日本人にとってわかりやすいのは五文字七文字の韻律だろう。五七五がそうであるように、身体的な語感の習得には、何よりもまず反復であり習慣、そして伝統の影響が大きい。けれども、それだけじゃない。何かを口にしたり、何かにつまずいたり、照りつける日差しがじりじりと肌を焼く感覚だったり、そういう個人的な些細な、一回限りの経験とともに、詩はよみがえってくる。圧倒的に。
個人的な韻律。こういうものは誰とも共有できないものかもしれない。
冒頭のフレーズは、中原中也の言葉。亡くなる直前に編まれた詩集『在りし日の歌』の中にある。
[photo: 聖護院, 2010]
魚偏(さかなへん)に豊(ゆたか)と書いて鱧(はも)・・・よお言うたもんですな
小津安二郎の言葉が好きだ。話している内容や意味よりも、ひとつひとつの輪郭が明確で積み木のように積み重ねられていくさまがいい。きわめて人工的な響きなのに、耳に残る。というか、ちょうど自転車をこぐのがそうであるように、身体がおぼえていて、反射的にすらすらとよみがえってくる。
上に掲げたのは、彼の遺作『秋刀魚の味』に出てくる台詞。「鱧」の字は知っていたものの、いまだ食べたことがなく、「はも」と言われて「ハム」と聞き間違えてしまうほど、その味を知らないでいた元教師の言葉だ。
いよいよ七月。京都では今日から「鱧祭り」こと祇園祭の諸行事がはじまる。街がいちばん暑くなる季節の到来です。
[photo: 先斗町, 2010]
諏訪綾子さんのレクチャー「味わいの零度」は、梅雨の晴れ間にふさわしく爽快で、うまく言えないけれども、どこか「希望」に満ちたものだった。
レクチャー半ば過ぎたころ、参加者のみなさんに「嫉妬のテイスト」と題された諏訪さんの作品をテイスティングしていただいた。その後、何人かの方に感想をうかがった。
感情、感覚、そして記憶。味覚を通じて解放される内面世界。ふしぎな一体感があった。ぽつりぽつり、それぞれの思いを語ってくださったみなさんに通底していたのは、「次はある」という予感ではなかったか。
「味わいの零度」というタイトルは、言うまでもなく、ロラン・バルトの『エクリチュールの零度』にあやかったものだ。あえて説明するほど、それをふまえていたわけではないけれども、ただ一つ、同書でバルトが求めていたのが、言語の「ユートピア」であったということを、あらためて指摘しておきたい。
エコであれ、アートであれ、その他なんであれ、現代を語る言説で、「ユートピア」という言葉に出会うことはまずない。そもそも将来への希望を語るものすらほとんどない。クリティカルな言葉ばかりで、結果的に今がよくないということの繰り返し。批判のための批判、醒めきったまなざし。そこからは、「次」の言葉は生まれてこない。
常識をつきやぶる表現に痛快さを感じたとしたら、それは単につきやぶったことによるのではなく、つきやぶった先の実感、「次がある」という確信によるのではないだろうか。原点に立ち返るとは、そういうことではないだろうか。戻ることではなく、次へと一歩踏み出すこと。それをユートピアと呼ぶのは、僕がよほど楽天的だからかもしれないけれども、こんな時代だから、あえてそう言いたい。次はある、きっと。
『目の眼』という月刊誌がある。古美術や工芸の専門誌だ。今年の1月に400号が出たことを受け、さきごろ記念特大号が出た。
題して「サヨナラ、民芸。こんにちは、民藝。」。先週末、編集部の上野昌人さんからお送りいただき、さっそくパラパラと読んでいる。
内容はタイトルどおり民芸の特集。これまでも時代の節目ごとに民芸への再評価のムーブメントがあった。いまもまたそう。本書は、そうしたいまの空気をふまえながらも、柳宗悦らが生み出した「民藝」という視点、そのエッセンスに立ちかえることをねらいとするもので、「民藝」とは何なのか、様々な角度から追及している。といって論文みたいなものがずらずら並んでいるわけではなく、柳の文庫本に関する巻末の「読書ノート」のほかは、以下の6つの対談で構成されている。
「民藝はすでに終わっているのか?」
濱田 琢司 (南山大学人文学部 准教授 ・ 文化地理学)
× 久野 恵一 (もやい工藝 主人 ・ 日本民藝協会 常任理事 ・ 手仕事フォーラム 代表)
「民藝と骨董に違いはあるのか?」
尾久 彰三 (文筆業・日本民藝館 元学芸部長)
× 豊島 愛子 (骨董愛好家 ・ 主婦)
with 鄭 玲姫 (李朝喫茶「李青」 主人 ・ 骨董愛好家)
「用と美の間で作家は何を思うのか?」
志村 ふくみ (染色家)
× 近藤 高弘 (陶 ・ 造形作家)
「柳宗悦はなぜ利休をせめたのか?」
岡村 美穂子 (鈴木大拙 元秘書 ・ 日本民藝館 評議員)
×千 宗屋 (武者小路千家 ・ 官休庵 15代次期家元)
「手仕事の市場は女性のものか?」
F/style 星野 若菜 ・ 五十嵐 恵美 (産地プロデューサー ・ デザイナー)
× 田中 敦子 (編集者 ・ 工芸ライター ・ プロデューサー)
「民藝、手仕事に未来はあるのか?」
馬場 浩史 (スターネット 代表)
× 北村 恵子 & テリー・エリス (BEAMS バイヤー)
with 南雲 浩二郎 (BEAMS クリエイティブディレクター)
特大号というだけあって、分量は通常の『目の眼』の倍、292頁もある。まだ半分ほどしか読んでいないが、それぞれ臨場感にあふれて読みごたえがある。
たとえば濱田卓司さんが「諦念」を口にしたり、志村ふくみさんが内藤礼を話題にしたり、この人ならではといった発言がちりばめられ、じっと耳を傾けるように読みふけってしまう。通りいっぺんの解説本とはちがい、「現代」という時代性を反映した個性的な方々の実録的なものでもあるので、多少なりとも民芸や工芸に関心のある人なら誰でも、自分の関心と重ねあわせながら楽しんで読めるのではないかと思う。こうしてこれを書きながらも、つづきを読むのが待ち遠しくてならない。
ところで、この企画については、一年ほど前、器館の梅田美津子さんからうかがい、上野さんとも数回メールのやりとりをしたことがあった。
僕としては、民芸をただ骨董とか工芸ではなく、ライフスタイルの提案の試みと位置づけたいと思っている。環境問題をきっかけに暮らしのあり方の再考が求められているいま、近代化を契機として同じように日常の身の回りのものの見方の刷新を試みた民芸から、何か手がかりが得られるのではないか、そんな風にも考えている。だけども、上野さんはエコにはかなり懐疑的のようで、昨年のやりとりでも今回の御礼メールの返事でも、「絶望的」という。「人間の向上心が地球を破壊するのなら、黙って受け入れるしかないのではないでしょうか?」、と。
いただいた本の頁を繰りながら、「絶望的」「黙って受け入れる」という言葉が、ずっと頭の隅でちらついていた。その言葉に反発したのではなく、それを踏まえて「次」を考えるのが、自分の務めだと思いつつ。それが地球研での「人と自然:環境思想セミナー」という試みでもあるだから。
* 志村ふくみさんと近藤高弘さんの対談では、上記セミナーのことも触れられています。
茶の湯の道具づくりに代々たずさわる職人集団に、千家十職というのがある。樂茶碗をになう樂家をはじめ、表千家にゆかりのある十の職家の総称だ。
その千家十職の新作が一同に会して開催される「十備会」という展示会がある。先日、「お玄関」の郡知久さんから案内をいただいた。通例は3年ごとの催しだが、このたびは6年ぶりの開催というので、会期最終日の今週水曜、会場である表千家北山会館に行ってきた。
茶道具の美しさは、ときに「ゆがみ」や「非対称」にあるとも言われる。そうした美意識の現れとして、“うぶ”な新作よりも、染みや欠け、時を経て使いこまれてきたことで醸し出される“味”を愛でるのがよしとされる。しかし、それはあくまで茶の湯の一部であって、その対極というか、原点には、一切のあいまいさを許さない、明快なカタチの追求がある。家元とは、そのカタチに意味を与えること、道具職人の仕事とは、それを形あるものとして示すこと。十人の精巧な新作を前にして、あらためてそのことに気がつかされた。
でも、どこか窮屈で、遠い存在であるような気もした。気分的な素人の印象にすりよる必要はない。でも、どこか遠い。明快なカタチとは、かならずしも一切の変化の余地を排除して完成しきった、スタティックな姿ではないのではないだろうか。そんな気もした。
会場には、それぞれ当代をになう十人の職人さんがいた。もちろん、樂吉左衞門さんもいた。近況を少しうかがった程度で、その時自分がひっかかっていた「遠さ」は口にしなかったけれど、勧められるままに、樂さんの茶碗を手に取ってみた。一番気にかかったのは、一番表現性の強かった黒樂で、最初にそれを手に取り、最後にふたたび掌に包みこんでみたけれど、遠さの理由はわからなかった。
帰り際に、別のフロアに設えられた立礼席をのぞいてみる。立礼卓が目にとまった。長方形の角を丸く落とし、木地を生かしたシンプルなデザインで、まるでリビングのテーブルセットのよう。この日いちばん心にかなったのは、この“テーブル”だった。作は、塗師中村家の先々代、元斎宗哲(1899-1993)。名工として知られた方で、戦後の職家のリーダー的存在でもあった。
モノは使われてこそ、と言った。それにしても、あえてそんなことを言うなんて、どこか不自然な気がする。使うというのは、あくまで日常、あたりまえのことだからだ。
そんな不自然さとはまるで無縁なのが、木工デザイナーの三谷龍二さんだ。彼はあたりまえのことをあたりまえにする。それが本当に自然なことなので、三谷さんのさも当然のようなふるまいに、自分のあたりまえのあり方を気づかされるというぐらいに。
松本に出かけたいちばんの理由は、言うまでもなく、クラフトフェア。二日間の会期中、述べ5万以上の人が、あがたの森を訪れたという。ここに来れば何かがある、ここに来れば何かがわかる。いまの時代にそんな思いを抱かせる稀有な場所。でも、そこにあるもの、そこでわかるものは、何も特別なことじゃない。特別じゃないという清々しい雰囲気が、クラフトフェアの魅力かもしれない。
ひとしきり会場を見てまわった後、三谷さんのテントを訪ねた。三谷さんの器で奥さんの手料理というもてなしに、ささやかな感動。クラフトフェアの集い方、そしてそれを引っ張ってきた三谷さんのスタンスに深く感じ入ったそのひと時は、周囲の芝生のまぶしさとともに、初夏らしい爽やかな記憶としてある。
モノが呼吸するといえば、先だって松本で泊まった旅館、金宇館 (かなうかん)はまさにそれを経験することのできる場所だった。
通されたのは、昨年リニューアルされたばかりの「辻堂」。洋室のリビングと和室からなる、ゆったりとした部屋だが、別々に独立していた二つの客室をあわせたものらしく、もとはいずれも畳間だったという。
言われてみれば、リビングにも床の間がある。和室が網代天井に竹の床柱という爽やかな趣きであるのに対して、リビングは桜材の竿縁天井、欄間の透かしにも桜の枝が用いられ、どこか温かでぬくもりのある風合い。それが、板間ならではの飾り気のなさにもふさわしく、質朴な松本民芸家具との取り合わせは、最初からこんな風だったかのような錯覚を起こさせる。
「辻堂」のある別館が建てられたのは昭和7年(1932)というから、もう80年近くになる古い建物だが、それぞれの部屋の個性をいかしつつ、みごとに現代のセンスにかなった形に改装されていた。
モノは使われてこそ。「辻堂」が、新たに人の手が加わることで、モノがふたたび生き返った実例だとしたら、別館と本館をつなぐコンクリートの階段は、何よりも使われつづけることがモノの生き生きとした姿にとって大切だということを教えてくれる好例と言えるかもしれない。
一見何の変哲もない普通の階段だが、一段一段、角に面取りが施されており、昔の職人の細やかな仕事ぶりがうかがわれる。加えて、コンクリートという響きからは想像できないほど、まるで磨き抜かれた石のようにすべすべとしたその質感は、職人の技術と思慮深さのたまものであると同時に、長い年月、幾人もの客が通り過ぎ、その間欠かすことなく手入れされてきたことの証でもある。
金宇館は、決して特別贅沢な旅館ではない。むしろ素朴とさえ言える。でも、かつては当たり前だった素朴さが、いまはむしろ何物にもかえがたいほど貴重だということを実感させてくれる。建物のためだけではない。それを守ってきた人々、いまも守りつづけている人々の飾り気のない素直な心遣いに随所で出会うことができるからだ。
作り手と使い手、そしてその両者をつなぐ者の思いがそろったとき、モノはそこに確かな居場所を得る。モノにはもちろん命などない。「呼吸する」とか、「生き返る」などというのは、比喩的な言い方にすぎない。けれども、居場所を得たモノには、自然の造形と同じく、そこにそれがあることの説得力を感じる。存在の説得力。モノが呼吸するというのは、そういうことだ。
「辻堂」の裏山の松林からは、ハルゼミの鳴き声が聞こえた。その鳴き声を聞いていると、なんだかたまらなく懐かしい場所のように思われてきた。
先週の土曜・日曜と松本に行った。開催中の「工芸の五月」にあわせ、市内中心部ではさまざまな企画が行われていたが、ギャラリースペースではない、普通の民家を使った池上邸のイベントが特に印象に残っている。
北アルプスの麓に広がる松本は水の街としても知られる。有名な蕎麦をはじめ、その生活文化は、周囲の山々で涵養された豊かな地下水に育まれてきた。旧市街のあちこちには水路や井戸、水汲み場があり、いまも多くの市民に利用されている。
通りに面した石造りの蔵が印象的な池上邸は、市内でもひときわ豊富な湧水に恵まれた地区に位置しており、庭の井戸からはいまも新鮮な水が湧き出ている。そうしたバックボーンをふまえて、昨年から、この蔵と庭を舞台に、暮らしに息づく自然の水をテーマとして「みずみずしい日常」と題した一連の活動が展開されてきた。
訪ねたときは、「水のカタチ」という展覧会が蔵の中で行われていた。金沢で制作活動をしている岡田直人(磁器)、艸田正樹(ガラス)、竹俣勇壱(金属)の三人展。蔵の前庭では、同じく金沢の福光屋による「草の庭カフェ」。「水のカタチ」の三人の器で、酒肴が供されていた。
三人の作家の作品は、それぞれに無駄のないシンプルなカタチが魅力的だったけれど、石蔵という薄暗い空間のせいだろうか、水を湛えたかのようなガラスの透明感がひときわ印象的で、艸田さんの高杯型の器をふたつ買った。
それらが「酸素の国」という名の作品であることは、京都に戻ってから知った。たしかにどこか呼吸しているみたいだ。
ちょうど一週間前に地球研で「第19回国連子供環境ポスター原画コンテスト」の審査会が開かれた。国連環境計画(UNEP)の6地域支部(アフリカ・アジア太平洋・ヨーロッパ・中南米・北米・西アジア)から送られてきた予選通過作品1,616点の中から、最優秀作1点、準優秀作1点をはじめ、計63点の「入賞作」が選出された。
このコンテストは、UNEP、地球環境平和財団(東京)、バイエル(ドイツ)、ニコン(日本)が主催し、世界中の子どもを対象に行っている事業で、1991年にスタートした。
19回目となる今回のテーマは「生物多様性」。2010年が国連の「生物多様性年」にあたることによるもので、入賞作は、10月の「生物多様性条約締結国会議」(COP10、名古屋)にあわせて開催される「こども国連環境会議」で発表・表彰される。20万点にのぼる応募作品は、特別協力機関である地球研に寄贈されており、COP10に先立ち、8月には京都でも展覧会を開催予定だ。
今回の予選通過作品の中で、僕がいちばん気に入ったのは、コロンビアの10歳の女の子の作品。最初は太陽の絵かと思ったけれど、画面下にあるLoro Orejiamarillo という文字は、コロンビアに生息する絶滅危惧種のオウムの名前らしい。選考には直接コミットしなかったし、すべてを見たわけではない。でも、生物多様性というテーマからか、森の絵を描いた作品が多かった中で、何よりもこの色と筆づかいは抜群だった。
Loro Orejiamarillo は、直訳すると「黄色い耳のあるオウム」。なんだかアリスにでも出てきそうな名前だ。
ラファイエット夫人以来、フランスの心理小説では、「習慣」「慣れ」という言葉が盛んに使われた。習慣としてパターン化してしまった日常の感覚とはまるで異なる感情、恋愛の特異性を描き出すために。恋に敏感なフランス人は、その対極にある習慣にも敏感だった。慣れ合いのしぶとさに相当悩まされていたということかもしれないけれども。
習慣化していく中で埋もれていくものを救い上げること、それが日常の意味をあらためて知らしめてくれる。日々の暮らしを見直そうという今だからこそ、そうした視点が大切だと思う。
再スタートの6月。テーマは、degré zéro、日常の「零点」です。
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2010.6.16. wed 15:00-17:00
総合地球環境学研究所
「味わいの零度」
話し手 : 諏訪綾子さん(food creation 主宰)
今もどこかでだれかが食べている。
国籍も、文化も、関係なく、わたしたちは毎日食べている。
食べずには生きていけないし、あたりまえの行為として、
習慣として、時にはりきって、私たちは食べる。
私は食べものをつくっている。
それは罠のようなもので、
私はそこに置いて、陰からこっそり見ている。
無理矢理だれかの口に食べものを押し込むことはしない。
食べてとお願いすることもない。
ただ、そこに置くだけ。
人は好奇心に満ちている。
魅力的な人ほど、好奇心に溢れている。
人は好奇心によって進化してきた。
最初になまこを食べた人はえらい。
最初にフグで命を落としたひとは、きっと素敵な人だったはず。
私は安全で美味しい食べ物に溢れたこの都市で、
なまこやフグのような食べものを作る。
栄養源でもエネルギー源でもない、グルメや美食でもない、食べもの。
見たこともないものはきっと素晴らしい。
食べたことのないものは、きっと人を進化させる。
諏訪綾子
あふれんばかりの食の情報に取り囲まれて、現代ではともすると「味わう」という感覚が麻痺しかねません。でも、もしかしたら私たちの味覚は単に眠っているだけなのかもしれません。意表をついたフードパフォーマンスで、忘れていた味覚、食べることのすばらしさを想起させてくれる諏訪綾子さんのお仕事を拝見していて、ふと思いついたのが「味覚のゼロ点」という言葉でした。food creation の活動、そのねらいをうかがいながら、味わいの原点を考えていきます。
* 諏訪さんの手になる作品をテイスティングいただきます(先着100名様限定)。
自然と書いて、「じねん」と呼ぶことがあります。ありのままの物事の様態を意味する言葉。様態ですから、名詞ではなく、「自然(じねん)なる」という風に使われる形容動詞です。
明治時代に欧米の nature や Natur の訳語として「自然」という言葉が当てられ、「しぜん」と発音されるようになる前は、日本人にとって自然とは、自らもその内に含まれる「自然(じねん)なる」ことのひとつでした。「自然なる」ことは、自然も、人間も、共通して従う理(ことわり)のようなもの。そこでは、自然と人間、自然と文化という区別はありません。
昨日は、地球研で、建築家の石上純也さんのレクチャーでした。環境と建築の関係性そのものにフォーカスし、両者が共通してもつ「あいまいでやわらかな空間」を具体化しようという石上さんの話を思い返しながら、ふとこの「自然(じねん)」という言葉を思い出しました。
たとえば、常緑樹から落葉樹まで、植生のプロポーションや微妙な変化に即して、建築と建築でないものとのグラデーションを形にしようというところ(Venice Biennale of Architecture、2008)とか、季節の移ろいのような、視覚的に把握できない、きわめて「ゆったりとしたスピード」を、あえて視覚的に表現しようというところ(lake project、2008~)、とか。
もちろん、「自然(じねん)」なんて、現代建築の“最前衛”とも評される石上さんには、まるで似つかわしくない表現ですし、「石上純也は実は日本的」なんて言って片づけようとは思いません。ただ、彼の作品の魅力は、表層的な現代性だけでなく、イメージ以上に伝統的な考え方や感性の中に通底するものでもあって、それらの現代的な意味や面白さを見出す手がかりを与えてくれるものでもある気がします。実際、KAIT工房では、当初、木の柱にすることも考えたらしく、木造への関心も語ってらっしゃいました。
一方で、レクチャー後の対談では、自らのスタンスはあくまで「人間中心」の見方にあるとおっしゃっていました。自然への関係性にスポットをあて、伝統的な感性にも通じるからといって、それらがまずありきではなく、自身のクリエイティブな本能というか、性というか、そうした衝動がなければ、もとより創作なんてできない。ポイントはそこなんでしょうね。
ちなみに、レクチャーのタイトルは「自作について」。「プロポーション」、「建築の強度」、「ゆっくりとしたスピード」、「巨大なボリューム」、「大きな環境」、「小さな住宅と小さな環境」、「部分と全体」、「孤立していること」、そして「建築を考える環境」という9つのテーマに沿って、9つの自作を解題するものでした。
議論はクリアで、エッジの効いた作品そのままでしたが、それだけにどこかナイーブな人柄がとても印象的。レクチャー後の懇親会では、何度も隣のビールや料理に手を出して、境界のあいまいさを実践してくださいました(笑)。
懇親会は、おきまりの北山の「万」。串カツの名店です。