門下生・練習生のブログ「稽古週報

今回は若手の杉本真海と古参の志村智子です。
それぞれが、それぞれの思いをもって、
道場に通っていることがよく伝わってきます。
願わくば、その思いが、より強い「志」とならんことを。




桜もだいぶほころんで、もうそろそろ見頃を迎えそうです。

昨日、今日と風が強く、せっかく咲き始めた花や、
重そうな蕾を風がさらっていってしまわないか心配です。
さて、門下生・練習生たちのブログ「稽古週報」に
二本記事がアップされたのでお知らせです。
脱皮を目指す鬼と、日頃のもやもやを道場で一刀両断にする勇人。
こういうことを思ったり、感じたりしながら、
それぞれが道場に集うのかと、
私も面白く読ませてもらっています。
黒澤雄太




門下生・練習生たちのブログ「稽古週報」

練習生・一ノ木直樹の記事がアップされた。
道場に通いながら思うこと特集のひとつである。
これらを読むと、門下生・練習生たちが
どういう思いを抱いて道場に通っているのかが
よくわかる。
一ノ木直樹
(カブキとはあだ名である)
なぜ日本刀を振るうのか?
別に、人を殺めることが目的ではない。
日本刀を携える者としての精神の鍛錬が大きな魅力である。
以下は「稽古週報」のサイトへ




今回の週報は、去年入った練習生の井上裕太

(私と同じ名前のため「コユウタ」と呼ばれている。)
が、自分自身から逃げないことの決意を書いている。
道場に来て、それを強く意識したようだ。
大変に立派だ。
この新鮮な気持ちを続けてほしい。
世の中には、人のせいや、世間のせいや、経済のせいや、
政治のせいなどにして、自分の問題から目を背けようと、
逃げ回っている輩が多いが、
私はその手合いが大嫌いだ。
自分以外の何かのせいにしようとしても、
結局は自分自身の問題なのだ。
これが肚に入らなければ、進む道がない
ちっぽけな自分のエゴ、個性だと思い込んでいること、
人から認められたい、できることなら威張りたい、
おだてられ、持ち上げられて気分が良くなりたいなど、
そんなクソの役にも立たない「我」は捨ててしまえ。
それができたら、生きることが楽になる。
下にある「捨我」とは、そういう意味だ。
修行とは心の鏡を磨くこと。
曇りなきよう磨かれた鏡に映る自分の姿に、
これだけ境が進んで、
すこしはよい顔になったと自他ともに認める修行者もあれば、
そこに映る顔のあまりの卑しさ、下賎さに言葉を失い、
それが自分自身の心の本質を映していることに気が付きもせず、
人のせいにしたり、しだいに足が遠のいたりする。
そうやって、いつも逃げ回っている輩は、心の安寧をえることがない。
たとえ少々きつくても、負ける屈辱を味わっても、
逃げないかぎりは、君は永遠のチャレンジャーだ。
チャレンジャーには次の勝負に挑戦する資格がある。
しかし、一度でも逃げてしまった者には、
次に挑戦する資格は与えられない。
負けることをおそれず、精進してもらいたい。




門下生・練習生のブログ「稽古週報」に、
武徳院の道場に通う高校生の女の子が書いています。
道場に通い、実際に刀を振ってみて、
刀は人を傷つける為にあるのではない、
ということに気付いていく話しです。




私の大叔父の作曲家須賀田礒太郎の自筆楽譜の展示が、

神奈川県立図書館で開催されています。
戦中、戦後に須賀田が住んだ家の蔵の中に
五十年にわたって眠っていた楽譜たちです。
眠りから覚めた経緯とその後の演奏会の模様などは、
武徳院webのここに詳しく書いてあります。
今は縁あって、ここ県立図書館に寄贈されています。
須賀田はもともと県立図書館にも近い所に住んでいました。
しかし、戦争が激しくなり、栃木県の田沼町に疎開し、
そこで亡くなりました。
ですから、県立図書館に楽譜を寄贈するというのは、
須賀田の里帰りでもあるわけです。
須賀田の自筆楽譜は繊細な線の使いようが、
デッサン画のように美しく見えます。
よかったら、見に行ってやって下さい。
神奈川県立図書館
2月10日(金)~5月9日(水)




フランス人演出家ヤン・アレグレとのプロジェクト
「雪=ネージュ」の公演も終わり、
その後も残って観光していたスタッフのトムも、
先日帰っていった。
旅立ちの前日には、公演関係者の何人かで浅草に行って、
凶が多いので有名な浅草寺のおみくじを引き、
トムは一発で大吉を引き当てて、
満足そうに笑っていた。
その後、隅田川沿いを散歩して、
フランスではご禁制のまぐろを食べに寿司屋に行ったり、
(フランスにはたくさんの寿司屋があるそうだが、
マグロのない寿司屋を果たして寿司屋と呼ぶのかどうか。
日本人には疑問です。)
お茶して語り合ったりと、
何かを共に成し遂げた間柄にうまれる親密感でもって、
楽しい時間を過ごした。
さて、いよいよこれで一段落だ。
今回のこのプロジェクトで、さまざまなことを得た。
考えさせられることも多かった。
しばし沈思黙考の時間が必要だ。
沈思黙考しつつ、肚に落とす。
あるいは、静かに身体を休めているうちに、
自然に肚が充実してくると言うか、
気が満ちてくると言うか。
表層的な思考や行動にならないためにも、
この私には時間が大切だ。




1月はフランス人演出家のヤン・アレグレとのプロジェクト
雪=ネージュ」公演と稽古の毎日です。
作品の中身や、いま自分がこういった所で剣をふることなど、
考えだすと割り切れないことが、
ぽつりぽつりと浮かんでは消えるのだが、
ともあれ、三年以上前に出会い始まった、
ヤン・アレグレという男との友情を、
個人的な心境の変化だけで裏切ることはできない。
いずれにせよ、舞台芸術のような形で、
自分が関わることは、これが最後になると思う。
だから、できるかぎり楽しもうと思っている。
また、ポンピドゥーセンターのメッス分館では、
演武と講演も予定されているようだ。
どんな場所であれ、どんなやり方であっても、
自分自身の肚は失わないように、
みっともないまねはしないように、
気を引き締めていきたい。




謹賀新年

先日、寺にお札をいただきに参った時に、
本堂に「昇天の龍は池中に潜む」
という言葉がかかっておりました。
本年は辰年。
日本国中の龍の気を持った人間たちが立ち上がって、
この国を少しでもまともな方向にむけることを、
切に祈ります。




いよいよ年の瀬も迫ってきた。
今年は未曾有の年であった。
大震災とそれに続く原発事故など、悪夢のような一年だった。
こんな悪夢は年が新たまることを機に、
早く終わってほしいと願う人も多いはずだ。
高浜虚子の句に
「去年今年 貫く棒の如きもの」
(コゾコトシ ツラヌクボウノゴトキモノ)
というのがある。
年が新たまり、気持ちが一新する面もあるが、
しかし、反面では去年から棒の如く貫く変わらないものもある。
鴨長明の「方丈記」の書き出し、
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」
は有名だ。
で、はじめて「方丈記」の全文を読んだ。
これを読むと、人間の営みや個人の感じる感情などは、
文明や文物の表層の変化とは関係なく、
あまり変わらないものだと気付く。
同じようなことで悩み、苦しむ。
平安時代を生きた人と、現代を生きる我々が思い、
悩み、怒り、諦めを感じていることの、いかに似ていることか、
少しおかしくなり、クスリと笑ってしまう。
しかし、似たようなものであっても、決して同じではない。
川の流れは同じに見えても、そこを流れる水は、みな違う。
同じようなことで悩んではいても、同じことで悩んでいるのではない。
今年は特に、日本中が悲しみ、悩み苦しむ一年であった。
そして、起きてしまった現実が来年も続いていくように、
この気持ちは来年も続く。
重い思いを抱えて、私たちは歩んでゆかなくてはならない。
しかし、どんなに重くとも、目を背けずにしっかと見開いて、
堂々と歩んでゆくことが、
死者に対する弔いでもあると思う。
手を合わせ、祈る。
今年もいつもと同じように年は暮れるが、
いつもと同じ暮れではない。




門下生と練習生たちのブログ「稽古週報」に、

先日の三嶋大社での奉納演武の感想をアップしています。
彼らの素直で等身大の感想が記されています。
「稽古納めと稽古始めを体験しよう」の参加者も
引き続き募集中です。
年末、年始いずれかの参加でも構いません。
参加費は無料です。
子供のうちの体験は何にも代え難いものがあります。
どうぞふるってご参加ください。



「稽古納めと稽古始めを体験しよう」

夏休み期間中に行い好評だった「こども道場」を

2011年度末と2012年の年明けにふたたび行います。

今回は年末年始ということもあり、

対象を子供だけでなくその親にも広げ、

親子で居合道の体験をできる機会とします。

 

また、稽古始めには武徳院の道場のあるお寺の本堂で、

この一年の感謝と無事の祈念をこめて、

みんなで般若心経をあげます。

 

慌ただしく過ぎ行く時間の流れの中にありながら、

道場の凛とした空気に身を置き、

子供のうちから礼儀作法や折り目正しさを体験しましょう。

あるいは親子で参加して、

絆を深める機会にしてはいかがでしょうか。

年末年始特別こども道場

「稽古納めと稽古始めを体験しよう」

 

実施日 2011年12月28日(水)

2012年1月4日(水)

場所 


往々にして私たちは、どちらが好きか嫌いか、いずれが勝ちか負けかなど、物事を二つに分けて考えがちだ。
私の本来の性格では、好き嫌いははっきりしているし、勝ち負けにもこだわる。雌雄ははっきりと決しないと気が済まないタイプだ。
しかし、気に入らないからと言って、しょっちゅう喧嘩していたら身が持たないし、だいいち気に入らないヤツは次から次へと現れるだろうからキリがない。
さて、私たちの身体には右側と左側があり、右手と左手がある。
居合道で使う二尺以上の刀は両手で持ってつかう。
この、両手で持ってつかうというのが肝である。
そして居合道の場合は利き手がどちらであろうが、右手が前、左手が後ろと決まっている。この決まりは絶対である。
刀を動かす軌道も、上から下から、右から左からと何通りかある。
ここで肝心なのは、ある時には右手をいかし、またある時には左手を勝たせる、というようなバランスの取り方である。
例えば、右手が利き手だからといって、いつでも右手が勝っていればよいわけではないし、あるいは逆に左手こそ肝要で右手は添えていればよいわけでもない。
ある斬り方や、ある局面においては右手をより勝たせて、左手は添える程度という場合もあるし、その逆もある。
そうやって、その時々に応じて右手と左手のバランスを取ることを、私は「調子を取る」と言っている。
調子を取るのは臨機応変である。
もちろん、ある程度の目安はあるが、感覚領域のことなので、自分でつかまなければ、つかえるようにはならない。
ある時には六分四分で右手を勝たせ、左手には泣いてもらい、またある時には七分三分で日頃の鬱積を晴らすように左手に勝たせる。
そうやって自分の身体をある意味では騙すようにして、勝負させるのだ。
しかし、騙しが過ぎると身体から反撃をくらうので要注意だ。
調子を取るとは、あくまでもバランスを優先させることで、今回はこんな感じで頼みますよ、と交渉するようなものだ。勝敗を裁くジャッジメントではない。
ある時には勝ちを譲り、また別の時には譲った分を返してもらう。
そうやって融通しながらバランスを取る姿勢は、少し前の日本人の多くの人の生き方と同じように思える。
勝ち負けにこだわって一喜一憂したり、怒りや敗北感を募らせるより楽な生き方だと思うがいかがだろうか。




先日のデロリでの「密談」はなかなか面白い目論見でした。

さて、11月5日の土曜日は三島大社で奉納演武を執り行います。
源氏につながりの深い三島大社での奉納演武は、
その歴史と相まって、身の引き締まる思いがします。
まして今年は大地震や原発事故など、
痛ましい出来事がたくさんありました。
亡くなった方々の冥福を祈ると共に、
原発事故によって失われてしまう可能性もある国土の安寧も祈ります。
日本の神々の前で、驕ることなく、謙虚に剣の技を奉納したいと思います。



門下生の日下部泰生が渋谷のバー「デロリ」で個展をやっている。

震災後ということもあるのか、以前の作品からは少し変化がみえる。心境の変化が作品に現れてきている。

なかなかに好ましい。

そして、会期中の十月二十八日の金曜日にデロリにて「密談」をしようということになった。

バーなので酒でも飲みながら(私は飲めないが)、絵を描いた日下部泰生と私と参加希望の皆さんとで秘密会議をする次第だ。

参加は自由ですので、どうぞ気軽にいらして下さい。

絵を見たい人、酒が飲みたい人はもちろんのこと、絵描きと剣士に聞いてみたいことがある人や、たんなる興味本位の人も歓迎です。

デロリは独特の雰囲気のバーで、その独特さからは少し意外に思われそうだが、料理も美味しい店だ。

それに、うれしいことにチャージがない。

参加は無料ですが、バーなので飲み物などは自分で注文して下さい。

「密会」10月28日(金曜日)午後九時より真夜中まで

渋谷「 デロリ