取材で、ひきこもりの子どもをもつ親の会合に同席した時のことだ。

 

会の幹部メンバーで、自身も地元で別の親の会を束ねるある女性がこう切り出した。

若干の喧嘩腰である。

 

「あなたは何のためにひきこもり問題の取材をするのか。どうして伝えたいのか?」

 

取材意図や趣旨の説明は対象者との関係や事柄自体に迫るうえでも必須事項なので、「世間では、ひきこもりやニート、発達障害といっても、単語だけが独り歩きして全然実態どころか概要も知られているとはいえない。にもかかわらず、社会のすぐ隣で当事者と関わっていながら問題を知らないために互いに困惑や翻弄されている事例が多い。単純に知ってもらうということが変化を生むことがあるのではないか。その為の取材です」といった旨のことを話した。

 

女性はため息まじりに

  

「世間になんて知ってもらわなくてもいいですよ、別に・・・。わたしたちはわたしたちで生きていきますし。世間のほとんどの人は、発達障害もひきこもり者もどこかの変わり者の話。理解してもらうなんて無理。別々に生きていけばいい。そうじゃないのかしら?」

      

強めの口調と表情に、これまでにいやというほどの試行錯誤を重ね「世間」との接触と付随する摩擦に翻弄され、疲弊しきった不本意さがはっきりと見て取れ、心情的に引っ張られそうになる。が、そこは、それこそ職業人としてここにいる意義と矜持をかろうじて取り戻しながら、冷徹に返す。

 

「世間に理解してもらうことは必要です。親御さんも子どもさんたちも、僕も世間の一要員です。関わり合いになるのに、数の多い側が少ない側の存在や実際をあまりに知らないばかりに、最悪の場合は殺人事件も起きています。理解なんかされなくていい、なんてことは断じてないのではないでしょうか」 

 

  

□   

  

 

発達障害を持ち、少し変わった会話の返し方をすることを以前よりからかわれ、アルバイト先の同僚につまはじきのようにされてきた21歳のJ君が、ある日理不尽さに耐えかねて仲間のひとりと喧嘩になり、突き飛ばしたはずみで大けがをさせてしまった。拘留中、面会した彼にも「どうしてこんな手のかかる面倒な事柄に首を突っ込むのか」と問われた。同様に「発達障害という言葉だけが世間を独り歩きしていて、世間の多くの人はそれが何か知らないのに、障害とつくから、とりあえず当たらず障らずで切り抜けようとしている。でも、どれだけ多くの人がこの特徴を抱えているか分からない。単に障害を持たない人が多数派なだけだ。社会の構成員として関わり合う以上、最低限の事実を知ってもらう必要があると思う」と答えた。

 


彼は涙を流しながら、


「いや・・・僕らなんてどうせ分かってもらえない。僕は昔からこうなだけで、変わっているおかしなやつだと言われ続けてきた。得意だと思って頑張ろうと思ってきたことすらも踏みつぶされてきた気分。全部人のせいにするつもりはないけど、世間に分かってもらえるなんて思わない」


と吐露してくれた。

 

経緯はどうあれ、向き合った相手方に大けがを負わせてしまった。その過ちから逃げるつもりはないという。しかし、生まれながらに持った「多数派と少し違う」特徴をもっているだけで、そこを理解しようとする歩みをみせず、つまはじきにして少なからぬ人を孤独に追いやる社会が過ごしやすいとは思えない。そして、それはみすみす「無知」が生むところも大きい。

     

 
昨今、センセーショナルな殺人事件などが発生するたびに「被告は発達障害があったらしい」との憶測が飛び交うことは数多い。発達障害の何かも知らず、その単語だけが弄ばれるようにして飛び交い、無知が生む偏見に「一般化」が拍車をかけて手をつけられなくなる。逆に少しの知識があれば防げるのではないかという事例も多い。それは「甘やかす」「腫れ物に触る」などということとは明らかに異なる、相互扶助に結びつくようにも思える。

  

   

多数派を占めるとされる定型発達者に対して、発達障害がある人たちは定型発達者とは少し違った独特の思考や感覚をもつことがあり、たとえば数字などある特定の処理能力には長けているが、文章の読み解きや情緒機微の理解や雰囲気を読むなどといったことを苦手とする、というのもあくまで一般的に語られる特徴にすぎない。その特徴や程度は多岐にわたる。数年間の取材を通して主張し続けているが、障害と括るから特別視されるまでであって、いわゆる定型発達者の中でも、たとえば弁が立つ・口下手、手先が器用・不器用などといった特徴は皆持ち合わせていて、できるだけ適材適所で生きられれば本人はいたって幸せというのはなんら変わらない。そのことを思えば、社会を構成する我々には、少しの知識を得てさりげなく特徴を認め合うという、特段無理のないことを求められているだけである。

   

  

「世間に理解なんかされなくていいんだ」

   

 

なんとも哀しく、やりきれない言葉ではないか。言論にしても法律にしても、その存在だけで、孤独の中にあって追い込まれている人を救えるなどというほど無邪気ではないつもりだし、それらを無条件に人に当てはめることには違和感があるが、さまざまな人の問題やそこにある思い、そして実は多くの人にとって当事者たりえる事象が実際に数多く存在する以上、地道でも果たす役目はある。知られていない、また知らずに過ごしていることで、その流れに身を任せるのは容易いことかもしれない。しかし、少しの事実を中心とした周辺の知識をもつことで無用な摩擦や事件沙汰を防げることも確実にある。

  

先の彼には、


「少数派が多数派に理解を求めることは、傲慢でも卑屈でも何でもない。社会の多数派に属する人は、それ以外の人の存在を最低限の知識を持って知る務めがあると思う。多数派の機嫌を取り、おびえ、遠慮して肩身の狭い思いをする、またさせる社会を変えたいと思っている人は僕の感触でも数多くいる。その為には、憐れむ、憐れまれるなんていう感情面だけでは限界があるし、事実と存在を淡々と提示していく必要がある。だから、もしあなたが自分が自分である誇りを持って生きたいと思うなら、協力してほしい。こちらも協力する。個人的には、その誇りを持ってほしいし、持てない社会はおかしくないだろうか」

 

と返させてもらった。


   

当事者たちの苦々しく困難な過去の歩みから言わせているであろう「世間に理解なんかされなくてもいい」との自棄や諦めのような思いと、「世間」の多数を占める「発達障害ってものがある人がいるらしいね」「職場や学校とかでかみ合わないし、ちょっと変わった言動や振る舞いをするから、あいつとは面倒くさいので関わらないでおこう」のやり切れぬ断絶には、気楽な感傷では片づけられない「無知の壁」が見事なまでに立ちはだかっている。だからこそ、淡々と伝え続けるという作業が、道のりは長くともやるせない齟齬を減らせるのではないか。


「どうせ○○だから自分(たち)なんか」

「世の中に見放された」

 

との絶望の淵に図らずもふれることになる、理不尽な闇との闘い――。

それは当事者に限らず、その闇を知るあらゆる人々にとって根気が求められる神経戦である。


 

昨今、国会での消費税増税論議の先行きに伴って夏頃までに総選挙が行われるのではないかとの憶測が飛び交っている。選挙の気配がすると、あるいは選挙の直後になると、もう何十年にもわたって指摘され続ける「一票の格差」が思い出したようにクローズアップされる。

 

しかし本来、

「一人の一票がそれに満たない」という、根本で平等が担保されていない人間の尊厳にかかわる問題が、選挙の前後だけ思い出したように浮き上がってきたり、横たわったまま改善もされず何十年も放置されていたりが常態化していることが、何よりこの国の立法府、そして一人ひとりの民の鈍感さを露呈してしまっていることに、我々は危機感をもつべきではないだろうか。

 

「住む地域によって、選挙で投票してもあなたは一人としてカウントされないんですよ?
『一票の格差』というフレーズは、それこそ何十年もニュースなどで使い古されてきて国民の感覚はまひしている。『一票の住所差別』と言いかえなければならない。人がもって生まれた要素で差別されることを許してはいけないのと同じく、たまたま住んでいる場所で一人の投票として認められない。こんなことを許して良いのか。許す許さないの前に、こうした差別が横行していることにすら気づいていない国民が大多数です。そこに気づけば、ほとんどの国民は立ちあがるはずです。そのために訴訟を起こしているわけですが、住所差別を追認する裁判官もいる。最高裁の判事は我々が国民審査で罷免することもできるんです。差別を容認する判事には退場願うしかない。これはまぎれもなく国民運動なんです」

 

一人一票の実現に向けて、長きにわたって訴訟や運動の先頭に立つ升永英俊弁護士は、この怒りのモチベーションを常に保ちながら各所で説いて歩く。昨今はFacebookやTwitterなどのソーシャルメディアでも活発に呼びかけを行い、着実に浸透をみせている。同様に、訴訟弁護団の筆頭にある伊藤真弁護士も、

 

「特に『尊厳』は重要だと思う。自分が自分であることへの自信、人間として対等に扱われることへの誇りといってもいい。1人1票はこの個人の尊厳に関わる問題だと考えるので私は妥協できない」

 

と、人権や公平さに常日頃考えが及ぶ人にとっては、ごくごく当たり前のことを力説する。なぜ力を込めて言及するのか。裏を返せば現状はそうではないということであり、この国に暮らす個々人が自らや周囲への人権意識や差別そのものに関して鈍感あるいは無関心であることの証左でもある。長年「一票の格差=議員定数不均衡」の問題が横たわっていながら、この国の民は一般に平等や権利を自ら勝ち取るという実体験が乏しいせいか、それらが脅かされていることに無頓着と言われても仕方がない体たらくも同時に横たわっている。

 

つまりは「自分ごと」ではないか。平等や権利を脅かす差別の元凶とは毅然と対峙せねばならないし、正されることを求め続けなければならない。しかし言わずもがな、それらへの「気づき」がない限り、対峙する行動も立ち上がらない。哀しいかな、今は、この「気づき」を多くの人に呼び掛け、問いかけている段階なのだ。

 

昨年3月には前回2009年衆議院選挙の一票の格差に関する訴訟において、最高裁は「違憲状態であり立法府はすみやかに改善すべし」との判断を明確に示した。この春にかけても同様に2010年参議院選挙における訴訟の最高裁弁論と判決が控えている。違憲状態という司法判断だけでは十分ではなく、前述の通り「違憲とはいえない」という消極的な見解を示す最高裁判事の存在を是認してはならないというのが、訴訟代理人や運動にかかわる人の一貫した姿勢だ。なぜなら、繰り返し言われている「一人0.9票でも認められない」というのと同じく、判事の「憲法違反である」との全員一致がなければ憲法の番人が尊厳や平等を担保したことにはならず、それらに「玉虫色の決着」はないからである。

 

あなたの住む地域で、あなたの「一票」が実はどれだけ「一票未満」なのかについては、このサイトで確かめることができる。選挙が近付いたから話題になるとか、消費税増税論議に伴う議員定数削減や再配分というニュースをきっかけに気づくとかいうのでも、この際よしとするしかない。いつ、何によって気づくのかよりも、差別と尊厳にしっかりと思いが及ぶ「気づき」からまっとうな批判精神を醸成し、当事者として行動できるかが重要なのだから。



 

公私を問わず、本当に日々いろんなことがあります。読者の皆さんも同じだと思います。

 

伝え手という仕事柄、

何かを伝える時に「その本質は何か」「伝えるべきポイントは何か」ということについて頭をひねり、複雑だなと感じることほど、なるべく多くの人にとって簡潔かつ明快に伝わるよう尽力しなければいけません。

 

それに加えて、以前から悩ましいのは「どこまで当事者の気持ちや立場をおしはかるべきか」ということです。

 

私事ながら、幼い頃より「人の気持ちを思いやること」の大切さについて教わる機会が多かったような気がします。自分が逆の立場だったらどう思うのか、どう感じるのか。ある程度、そこに思いを巡らせるのは大切だと思いますし、いくら一人ひとり感じ方が違うといっても、多少の差はあれ「これは嬉しい」「これは悲しい」などといった大まかな感情が共通する場面も多いとは思うので、そこをおしはかることは「思いやり」の範疇で、きっと悪いことではないのでしょう。

 

でも、必ずしも思いやること自体を実践できているとは思えませんし、知らず知らずのうちに「分かった気になる」危うさもあると思います。

 

もちろん、身内も含めて別の人間である以上、

その心の中までは分かりませんし、100パーセント気持ちを分かる共有できるなんてことはありえないでしょう。そう考えると、どんなに近しい関係でも他人の気持ちは「分からない」というところからスタートすることが正しく大切なのだと思います。そこは弁えなければいけないですが、かといって「他人の気持ちなんて結局分からないから、考えるだけ無駄」とまるまる完結させて投げてしまっては、人の心の動きも含めた「この世のさまざまな事象」という伝えるべき根幹が成り立たないのも事実です。

  

僕を含めた伝え手は特に、

「お前に人の気持ちが分かるか!分かった気になるな!!」と、さまざまな取材などの現場で叱責や罵倒された経験が一度や二度はあると思います。それは、良からぬ場面や厳しい場面であれば尚更言われがちです。確かに、相手にそう思わせてしまう落ち度は謙虚に反省すべきだと思っています。気を遣っていても、それが足りなかったり逆なでしてしまうこともあったりします。一方で、分かった気になっているのではなく、あくまで先の「本質」を伝える上で一定程度の共感や「近づきたい」との思いを携える必要があることを理解してもらえれば救われるなと感じる時もあります。こちらも鈍からぬ感受性をもつと自覚する身ですので、まるで思いが伝わらないどころか悪意に受け取られれば相当に落ち込みますし、次の一歩が怖くなります。

 

何も仕事や公私を問わずだと思うのですが、

「おしはかる」と「分かった気にならない」のあいだで葛藤し、失敗を経ながらも、そこで過度に萎縮したり恐れたりせず、少しでも成長と進歩を心がけて進むしかないのだと思っています。

 

皆さんの感想や体験談などもお寄せ頂ければ幸甚です。

 

常見陽平著「『キャリアアップ』のバカヤロー 自己啓発と転職の“罠”にはまらないために」が発売早々アツい。

 

著者は浅利と同郷であり同学年。これまでも専門である就職や転職活動、人材育成などといった「ソフト」に関する守備範囲の広さとフットワークの軽さを武器に、実体のあるようでない「そういうもの」として横たわり信じ込まれている既成概念への疑義と実効的な提言を、エッジのきいた表現で何冊もの著書に込めて世に送り出してきた。その多面的な物見とバランス感覚、ユーモアを交えた貫禄ある論客ぶりは、言わずもがな自分などより数段「大人」であることを痛感させられる。

 

そんな著者が発売早々「過去最高の常見本」と評される今著で一貫して主張するのは、「キャリアアップ」(著者は実体がないものとしてカッコ付きで表現)などという甘美で怪しげな横文字に惑わされ、焦り不安に駆られ、自分を見失うことの哀しさと不毛さである。そして、それはうっかり他人を笑えぬ「自分ごと」ではないかという警鐘をがんがん鳴らす。

 

はじめと結びでは「今、必要なのは地に足のついた愚直な生き方」「愚直な生き方に目覚めよう」と焦る人々をしっかりと諭し、本編では、その就職や転職にはじまり、会社、仕事、上司や新卒学生、自分磨き、ベンチャー企業家、ビジネス書や自己啓発に至るありとあらゆるものに対して、あらかじめ抱くそのイメージが妄想・盲信ではないかと読者に問いかける。自身の社会人としてのスタート時や転職の過程におけるほろ苦い体験も「転職漂流記」と銘打ち、かっこつけず包み隠さず盛り込むことで、学生社会人を問わず「漠然とした得体の知れぬ不安」に現在進行形で苛まれる読者を、ぐっと身近に引き寄せる。

 

どんな物事にもさまざまな面があり、ある種の真贋を合わせもっていることは「社会」に少し身を晒せば分かりそうな気がする。でも哀しいかな、人は無自覚に思いこみがちな危うさをもった生き物でもある。著者は、個々人のもつそのイメージや感覚が虚像を美化して翻弄されていないか、実態を把握した上でのことなのかといった日常的なセルフメンテナンスを促しつつ、無用な焦りやスタイルから入る転職や「キャリアアップ」、自分磨きの不毛さ滑稽さを具体例をもって指摘し、あくまで「地に足のついた愚直な歩み」を勧める。「虚像に惑わされるな」「見栄えや聞こえの良いスタイルに騙されるな」と繰り返し力を込めて説く。著者自ら「生きづらさ」や「心身ともに病むことのつらさ」をよく理解していることが分かるくだりが、その説得力を増している。

   

後半では、古巣であるリクルートについても「世間で思われているようなありようなのか?」との冷徹な検証を忘れず、自身の率直な経験談をもとに「20代のときに私が知りたかった12のルール」として、下手な自己啓発や「キャリアアップ」に躍起になることよりも、と的確なアドバイスを惜しみなく添えている。

 

大手企業を渡り歩く転職を経て、大学でも教鞭をとる気鋭の人材コンサルタントが引っさげるキャリア論というと「どうせ高みからのご高説」だろうと、先入観で敬遠する人がいるかもしれない。しかしタイトルの勢い通り、見事なまでにそんなイメージを一蹴する人間くささと痛快さで走りぬける。テンポの良さとともにすーっと胸に入ってくる読後感。この爽快さは、おそらく著者自身の適度な挫折や葛藤が確実に糧となり、本編の言葉を借りると「無駄な経験はひとつもない」ことを自ら体現してきた歩みが支えているのだろう。

 

プロレス好きでもある著者は、たまたま今著で「キャリアアップ」をキーワードに人材分野で「バカヤロー」と叫んだが、その本質たる「恐れず自分基準で生きるべし!」とのメッセージは、生きづらい世の中全般を渡り歩くうえでアントン(アントニオ猪木)の愛のビンタのごとく、20代30代を中心とした多くの「悩める真面目な人」を小気味よく覚醒させてくれるはずである。

 

「キャリアアップ」のバカヤロー 自己啓発と転職の“罠”にはまらないために (講談社+α新書)

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個人ブログでも以前にふれているのですが、今日は「取材源の秘匿」について書いてみたいと思います。

 

よく「ネタ元」という言葉がありますが同じもので、何かの情報を提供した人や物事など出所のことですが、その出所を明らかにできよく「ネタ元」という言葉がありますが同じもので、何かの情報を提供した人や物事など出所のことですが、その出所を明らかにできない時が多くあります。

 

扱う話題の硬軟問わず「ネタ元」が同業者に簡単に分からないようにするためという意味もあるのですが、今日の話はそれとは別個の報道の存在意義に関わることです。

 

たとえば、ある企業や団体や政治家など個人の不正を報じる時に「どこどこからの情報です」とその出所まで明らかになると、当然その人や組織を危険に晒すことになります。報道の大きな目的は「公共性のある事実を明らかにすること」なので、事実と一緒にいちいち晒されてしまっては情報提供や取材に協力してくれる人がいなくなってしまいます。
もちろん、情報提供とともにそれが事実なのか確かめるために取材など様々な方法で固めていきます(それが「裏取り」)。

 

記者はまず「ネタ元はばらすな、守り抜け」と教わります。
世に出さねばならない事実を伝える代わりに情報提供者に不利益を生じさせてはいけない。不利益の最たる例が生命の危険です。「事実」の前では記者は情報提供者の「代理人」です。

 

これが「取材源(情報源)の秘匿」といわれるもので「報道の自由」と本質的に同義とされています。
報道を含む表現・言論の自由は、日本国憲法でも第21条が根拠条文となり保障されています。

 

ところが、
仮に裁判になった際、この「取材源の秘匿」が常に認められるかは微妙な所です。
報道が事実という判定がなされる際にその証拠の開示を求められて、そうなると必然的に情報提供者が絡むやり取りの記録(録音や録画、メモなど)の提出を求められるケースが多々あります。報じる側は、取材などで「間違いなく事実」との確証をつかんでいればいるほど「ネタ元」を守り抜かねばならない。取材源が絡んだ証拠は「取材源の秘匿(=報道の自由)」を主張して出しません。
この点をめぐって最高裁まで争われた事例は沢山ありますが、認められたこともあれば認められなかったこともあります。「どこまでが本当か」の認定に絡んで、さまざまな要素が入り込むからだと思います。そのあたりは他の裁判と同じでしょうか。
 

 

「事実」に間違いないけれど「ネタ元」を出せないことで敗訴して多額の賠償などを命じられたとしても、「ネタ元」だけは守り抜くというのが記者個人を含んだメディアの本分なのだと思います。

 

もちろん、一連の話は取材源の情報と報道したことが「公共性を伴う厳然たる事実」だという前提ではあるのですが・・・。メディアの大小や種類を問わず、報道側は明確なガイドラインと自覚と誇りを持ってことに当たることが必須なのは言うまでもありません。

 

事実であっても常に「公共性があるか」という十分な検証は必須ですし、取材過程のメディアスクラムなどもってのほかだと思っています。伝え手側は、事実や受け手に対して常に謙虚であることが求められるのは言うまでもありませんが、現場では、残念ながらそれをあまり心得ていなかったり忘れていたリする伝え手を目にすることもあります。

 

どんな仕事もそうですが、その担い手である前に一人の人間であるわけで(当然の話ですが)

自戒を込めてそうした根本を弁えていないといけないと思います。

 

報道とかニュースというと

とかく伝え手側の姿勢や取り組み、事象や取材対象への向き合い方に目が行きがちなように思います。もちろん、伝え手がどう伝えるか向き合うかということに注力する必要があるのは言うまでもありません。しかし、そこだけに囚われてしまうと、独りよがりで傲慢な自己満足にすぎない報道になりかねません。

 

そんなことを改めてじっくりと考えさせられるのが、今日紹介させて頂く本です。

  

1995年の地下鉄サリン事件で、当時営団地下鉄職員だった夫を亡くした高橋シズエさんと朝日新聞記者の河原理子さんの共編著で、さまざまな犯罪被害にある日突然巻き込まれ身近な人を亡くしてしまった当事者からみた事件報道と、報道の渦中に何を思い、何を求めたのかが克明に記されています。

 

本編では、

高橋さんのほか、光市母子殺害事件の遺族としてその後長い期間マスコミの矢面に立つことになった本村洋さんなど当事者家族によって、事件直後のメディアスクラム(当事者が無防備な状態で報道攻勢の中に晒されてしまうこと)がいかに激しかったかということ、その後は事実をしっかりと報道してほしいと切に願ったこと、事件に巻き込まれたことで出会った他の犯罪被害者から「あなたの事件はよくメディアに取り上げられて羨ましい。私たちの事件は取り上げられ方が少ないから世に悲惨さが伝わっていない。もっと取り上げてほしい」と言われたことなど、その身に置かれたことのない者にとっては迫りくることが次々と伝えられています。

 

伝え手としては、遺族が語った「あらかじめ勝手にストーリーを描いてきて、それを前提に話を聞き、筋書きと違うと機嫌を損ねる記者には困惑する」といった記述に、ありがちな話だと恥ずかしい気持ちになる部分もあります。

   

出版当時の2005年に拝読したのですが、伝え手である前に社会に生きる一個人として、世知辛い時代に不本意ながらかつて以上にあらゆる種類の犯罪が起こる中で、いつ自分もこの本の中に登場する皆さんと同じ立場に置かれるか分からないとの自覚とともに打ちひしがれる悲しみと孤独、事件そのものに加えて無用な理不尽さを味わってもなお、希望と社会に向けての役割を見出そうとする姿に心打たれ、何度も読み返したことを覚えています。

  

そして、

この本では「犯罪被害者が報道を変える」との内容ですが、本来報道は、どんな出来事も例外なくある日突然誰が何が「主役」になるか分からない事象を日々扱うわけで、伝え手受け手を問わず謙虚に本質を見極めて他を慮ることが第一だと感じています。

 

「他人ごとではない」と口にするのは容易いのですが、

本当の意味で我が身に引き寄せて考えるきっかけとなる一冊です。

 

 “犯罪被害者”が報道を変える (岩波書店)

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先の東日本大震災による原発事故をめぐる東京電力の会見で、
フリー記者が質問できないとか、質問しても邪魔されるなどといった話が出ています。
 
その中に「東京電力の会見では、きちんと真実が伝えられていない」というリポートもあります。              
 
これから書かせてもらおうと思った本題は、原発事故の危険性でも東京電力が本当のことを言っているかでもありません。
 
いつから記者たちは世間の目もお構いなしに「内輪もめ」と「罵り合い」に終始するようになったのかということです。
 
真実が報道されていないなら具体例とともに提示すれば良いですし、またそれがでたらめだ煽りだというのなら具体例をもって反論すれば良い。
 
それなのに、中身以前にお互いイメージや先入観だけで「どうせあの人が言っているから」「どうせ記者クラブメディアが言っているから」と、記者同士がその存在自体を否定してしまっているのです。
 
これは、何も今回の東京電力の会見に始まったことではありません。
 
昨今はご存知の方も多い「記者クラブ」(大手新聞テレビ通信を中心とした一部の所属社による報道体制。中央地方やジャンルを問わず、ありとあらゆる記者クラブが存在)をめぐる閉鎖性や報道の偏りなど問題があることは事実ですし、いわゆる記者クラブメディアに所属する社員記者も若手中堅を中心に弊害や改革の必要性を指摘する人は多くいます。
 
要は、問題のある部分を指摘しフリーや雑誌ネットなど非記者クラブ所属メディアと記者クラブメディアを問わず、対峙すべきは「悪しき旧体制の打破」であって、よりよい報道という社会に対する存在意義を考えれば志のある人が「共闘」して改革していかねばならないのに、一部の人がやっているのは互いの「存在否定」です。傍から見て、それがどれだけ見苦しくまた不可解なことであるかが見えていないようです。
 
必要な「批判」はしても「否定」はしない。
当たり前のことではないかと思うのですが、それができない人もいるようです。同じ世界に身を置く者として恥ずかしく情けない限りです。
 
他の仕事を見渡しても、業務上対立することはあれど少なくともまっとうにその職業に忠実であるなら志とか方向は同じはずです(同じ仕事をしているので当然のことだと思うのですが・・・)。
 
歴史を見ても、やるべきこと立ち向かうべきものは手強いわけで、細かい立ち位置の違いなど超えてともに力を合わせて前進させることが大切ではないでしょうか?
少なくとも、さまざまな感情や思惑を背景にした次元の低い内輪もめをしている場合でないことは明らかです。
 
もしかすると、自分も偏った見方をしているかもしれない。
イメージで物を見て、思い込みがあるかもしれない。
他のせいにばかりしていないか?
 

自戒を込めて、常にそうした自省と客観視を忘れずにいたいものです。           
  
たまたま「内輪」の話になってしまいましたが、これはどの世界でも当てはまることだと思うのです。皆さんは如何お考えでしょうか。
     

 

突然ですが、「一票の格差」問題をご存知でしょうか?
  
選挙で投票するあなたの一票が、実は住む地域によっては一票未満の価値しかないという問題です。場所によっては0.5票だったり0.2票だったりするのです。
 
なぜこういったことが起きるのでしょう?
 
その大きな要因は、衆議院選挙でいえば人口比率にかかわらず都道府県ごとに議席を配分する「一人別枠方式」という選挙制度を採用したことで、ある人口の地域で議員1人が当選するとして、たとえばその3倍人口がいる所で3人が当選するかというと全然そうなっていないからです。
 
参議院選挙についても同様で、人口比率に応じて議席配分がされていないために、投票者数と議員の当選に必要な得票数に著しいばらつきが生じて、実質ある地域で「一人一票」だとすると0.5票や0.2票しかない、つまり2人とか5人ではじめて「一票」ということが起こってしまっているのです。
 
これが憲法の定める「法の下の平等」に反するだけではなく、何より「国民を代表する国会議員の多数が常に国民の多数である」という代議制民主主義の根本をなしていないということで、全国各地で訴訟が提起されています。そして現在までに、至近の衆参議院選挙が違憲あるいは違憲状態との判決が多く下されていることは、日々のニュースにふれていらっしゃる方は周知のことと思います。
 
「おそらくほとんどの国民は、この国が『負の代議制国家』だということに気づいていません。でも、現状は残念ながらそうなのです。まっとうな代議制民主主義国家にするには、一人一票の実現は不可欠です」
 
と訴訟を率いる升永英俊弁護士は力説しています。
 
今後も、こちらで「一人一票(議員定数不均衡訴訟)」に関するニュースや問題についてふれていきたいと思っています。
 
 
☆この記事に限らずですが、今後気になったことなど
  コメント欄を使ってお気軽にどんどん書いて頂ければと思います!

  
 
◆一人一票実現国民会議
(詳細や、貴方が住む地域の一票の価値が検索できます)
一人一票実現国民会議

 

皆さま、はじめまして。
このたびBRASHブログの仲間入りをさせて頂きました。
  
フリーランスの記者として活動しています。
   
さて、このブログでは何を書いていこうかなと思うのですが

まずは仕事柄、さまざまなジャンルのタイムリーなニュースについて

あれこれとお話していければと思っています。

といっても肩ひじ張らず自然体に、BRASHのコンセプトである「人生はゲームだ」ならぬ

「人生はニュースだ」で今を切りとっていけたらと思います。
  
 
そして、何事も前進・前衛・進歩を目指して伝えていきたいとの思いを込めて、

ブログのタイトルは「Advanced Journal」と命名させてもらいました。

 
というわけで、どうぞ末長くよろしくお願いいたします!

って、ちょっとかたかったかな・・・(^_^;)

 
浅利圭一郎