取材で、ひきこもりの子どもをもつ親の会合に同席した時のことだ。
会の幹部メンバーで、自身も地元で別の親の会を束ねるある女性がこう切り出した。
若干の喧嘩腰である。
「あなたは何のためにひきこもり問題の取材をするのか。どうして伝えたいのか?」
取材意図や趣旨の説明は対象者との関係や事柄自体に迫るうえでも必須事項なので、「世間では、ひきこもりやニート、発達障害といっても、単語だけが独り歩きして全然実態どころか概要も知られているとはいえない。にもかかわらず、社会のすぐ隣で当事者と関わっていながら問題を知らないために互いに困惑や翻弄されている事例が多い。単純に知ってもらうということが変化を生むことがあるのではないか。その為の取材です」といった旨のことを話した。
女性はため息まじりに
「世間になんて知ってもらわなくてもいいですよ、別に・・・。わたしたちはわたしたちで生きていきますし。世間のほとんどの人は、発達障害もひきこもり者もどこかの変わり者の話。理解してもらうなんて無理。別々に生きていけばいい。そうじゃないのかしら?」
強めの口調と表情に、これまでにいやというほどの試行錯誤を重ね「世間」との接触と付随する摩擦に翻弄され、疲弊しきった不本意さがはっきりと見て取れ、心情的に引っ張られそうになる。が、そこは、それこそ職業人としてここにいる意義と矜持をかろうじて取り戻しながら、冷徹に返す。
「世間に理解してもらうことは必要です。親御さんも子どもさんたちも、僕も世間の一要員です。関わり合いになるのに、数の多い側が少ない側の存在や実際をあまりに知らないばかりに、最悪の場合は殺人事件も起きています。理解なんかされなくていい、なんてことは断じてないのではないでしょうか」
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発達障害を持ち、少し変わった会話の返し方をすることを以前よりからかわれ、アルバイト先の同僚につまはじきのようにされてきた21歳のJ君が、ある日理不尽さに耐えかねて仲間のひとりと喧嘩になり、突き飛ばしたはずみで大けがをさせてしまった。拘留中、面会した彼にも「どうしてこんな手のかかる面倒な事柄に首を突っ込むのか」と問われた。同様に「発達障害という言葉だけが世間を独り歩きしていて、世間の多くの人はそれが何か知らないのに、障害とつくから、とりあえず当たらず障らずで切り抜けようとしている。でも、どれだけ多くの人がこの特徴を抱えているか分からない。単に障害を持たない人が多数派なだけだ。社会の構成員として関わり合う以上、最低限の事実を知ってもらう必要があると思う」と答えた。
彼は涙を流しながら、
「いや・・・僕らなんてどうせ分かってもらえない。僕は昔からこうなだけで、変わっているおかしなやつだと言われ続けてきた。得意だと思って頑張ろうと思ってきたことすらも踏みつぶされてきた気分。全部人のせいにするつもりはないけど、世間に分かってもらえるなんて思わない」
と吐露してくれた。
経緯はどうあれ、向き合った相手方に大けがを負わせてしまった。その過ちから逃げるつもりはないという。しかし、生まれながらに持った「多数派と少し違う」特徴をもっているだけで、そこを理解しようとする歩みをみせず、つまはじきにして少なからぬ人を孤独に追いやる社会が過ごしやすいとは思えない。そして、それはみすみす「無知」が生むところも大きい。
昨今、センセーショナルな殺人事件などが発生するたびに「被告は発達障害があったらしい」との憶測が飛び交うことは数多い。発達障害の何かも知らず、その単語だけが弄ばれるようにして飛び交い、無知が生む偏見に「一般化」が拍車をかけて手をつけられなくなる。逆に少しの知識があれば防げるのではないかという事例も多い。それは「甘やかす」「腫れ物に触る」などということとは明らかに異なる、相互扶助に結びつくようにも思える。
多数派を占めるとされる定型発達者に対して、発達障害がある人たちは定型発達者とは少し違った独特の思考や感覚をもつことがあり、たとえば数字などある特定の処理能力には長けているが、文章の読み解きや情緒機微の理解や雰囲気を読むなどといったことを苦手とする、というのもあくまで一般的に語られる特徴にすぎない。その特徴や程度は多岐にわたる。数年間の取材を通して主張し続けているが、障害と括るから特別視されるまでであって、いわゆる定型発達者の中でも、たとえば弁が立つ・口下手、手先が器用・不器用などといった特徴は皆持ち合わせていて、できるだけ適材適所で生きられれば本人はいたって幸せというのはなんら変わらない。そのことを思えば、社会を構成する我々には、少しの知識を得てさりげなく特徴を認め合うという、特段無理のないことを求められているだけである。
「世間に理解なんかされなくていいんだ」
なんとも哀しく、やりきれない言葉ではないか。言論にしても法律にしても、その存在だけで、孤独の中にあって追い込まれている人を救えるなどというほど無邪気ではないつもりだし、それらを無条件に人に当てはめることには違和感があるが、さまざまな人の問題やそこにある思い、そして実は多くの人にとって当事者たりえる事象が実際に数多く存在する以上、地道でも果たす役目はある。知られていない、また知らずに過ごしていることで、その流れに身を任せるのは容易いことかもしれない。しかし、少しの事実を中心とした周辺の知識をもつことで無用な摩擦や事件沙汰を防げることも確実にある。
先の彼には、
「少数派が多数派に理解を求めることは、傲慢でも卑屈でも何でもない。社会の多数派に属する人は、それ以外の人の存在を最低限の知識を持って知る務めがあると思う。多数派の機嫌を取り、おびえ、遠慮して肩身の狭い思いをする、またさせる社会を変えたいと思っている人は僕の感触でも数多くいる。その為には、憐れむ、憐れまれるなんていう感情面だけでは限界があるし、事実と存在を淡々と提示していく必要がある。だから、もしあなたが自分が自分である誇りを持って生きたいと思うなら、協力してほしい。こちらも協力する。個人的には、その誇りを持ってほしいし、持てない社会はおかしくないだろうか」
と返させてもらった。
当事者たちの苦々しく困難な過去の歩みから言わせているであろう「世間に理解なんかされなくてもいい」との自棄や諦めのような思いと、「世間」の多数を占める「発達障害ってものがある人がいるらしいね」「職場や学校とかでかみ合わないし、ちょっと変わった言動や振る舞いをするから、あいつとは面倒くさいので関わらないでおこう」のやり切れぬ断絶には、気楽な感傷では片づけられない「無知の壁」が見事なまでに立ちはだかっている。だからこそ、淡々と伝え続けるという作業が、道のりは長くともやるせない齟齬を減らせるのではないか。
「どうせ○○だから自分(たち)なんか」
「世の中に見放された」
との絶望の淵に図らずもふれることになる、理不尽な闇との闘い――。
それは当事者に限らず、その闇を知るあらゆる人々にとって根気が求められる神経戦である。





